1. 歌詞の概要
「Babooshka」は、Kate Bush(ケイト・ブッシュ)が1980年にリリースした3作目のスタジオアルバム『Never for Ever』からのシングルであり、彼女の音楽的個性と物語性を極限まで押し広げた野心作です。タイトルの「バブーシュカ(Babooshka)」とはロシア語で「老婆」「おばあさん」という意味を持ちながらも、この楽曲では“変装した女性の仮名”として機能しています。
物語は一人の中年女性が主人公。彼女は、夫が自分に飽きてしまったのではないかという不安から、「バブーシュカ」という偽名を使って匿名のラブレターを夫に送り、自分以外の女に彼がなびくかどうかを試そうとします。しかし皮肉なことに、夫はその“バブーシュカ”のミステリアスな魅力に惹かれ、恋に落ちてしまう。つまり、夫が恋に落ちたのは実は“彼女自身”であったという二重構造が、ユーモラスでありながらも切なく描かれているのです。
表面上はコミカルな恋愛劇に見えるものの、その裏には「夫婦の信頼」「老いへの恐れ」「女性の自己認識の変化」といった、より深いテーマが潜んでおり、ブッシュの作品らしい多層的な読み取りが可能な名曲です。
2. 歌詞のバックグラウンド
この楽曲は、Kate Bushが作詞・作曲を手がけ、1980年にシングルとしてリリースされると、全英シングルチャートで5位を記録。彼女にとっては「Wuthering Heights」以来の大ヒットとなり、ヨーロッパ各国でも広く親しまれることとなりました。
制作当時、ケイト・ブッシュはまだ若干22歳でありながらも、女性の内面や心理的葛藤を非常に鋭く捉えていた点が注目されます。楽曲は、クラシカルなピアノと鋭利なシンセサイザー、そしてストリングスが混ざり合った実験的なサウンドによって彩られており、80年代初期の“アート・ポップ”や“ニュー・ウェイブ”の到来を象徴する一曲ともいえるでしょう。
また、「バブーシュカ」という言葉はロシア語由来で、一般には“スカーフを頭に巻いた老婆”のイメージがありますが、この楽曲では“変身”や“仮面”の象徴として使われており、ケイト・ブッシュの作詞術の巧みさが如実に現れています。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下に「Babooshka」の印象的な歌詞を抜粋し、日本語訳を添えて紹介します。
She wanted to test her husband
She knew exactly what to do
彼女は夫を試したかった
何をすべきか、ちゃんと分かっていた
A pseudonym to fool him
She couldn’t have made a worse move
偽名を使って彼を欺くなんて
最悪の一手だったかもしれない
She sent him scented letters
And he received them with a strange delight
彼女は香水の香りがする手紙を送り
彼は奇妙な喜びとともにそれを受け取った
Just like his wife before she freezed on him
Just like his wife when she was beautiful
まるで、冷めてしまう前の妻みたいだった
美しかった頃の、あの妻とそっくりだった
Babooshka, Babooshka, Babooshka—ya ya!
バブーシュカ、バブーシュカ、バブーシュカ――ヤ・ヤ!
歌詞引用元: Genius – Babooshka
4. 歌詞の考察
「Babooshka」は、一見ユーモラスに見える“いたずら”の裏に、人間の深い感情の層を重ねた作品です。物語の中心にあるのは、“かつて自分が愛されたように、もう一度愛されたい”という渇望です。主人公の女性は、夫にとっての「かつての自分」と「今の自分」の乖離に苦しみ、もう一度“あの頃の輝き”を取り戻したいと願います。だが、その方法が“別の女性になりすます”というアイロニカルな試みによって展開されることで、物語には深い哀愁が漂います。
「Just like his wife when she was beautiful(美しかった頃の妻のように)」というラインには、外見的魅力だけでなく、“恋が始まった頃の新鮮さ”へのノスタルジーが色濃く表れています。つまり、彼は今の妻に飽きたのではなく、“過去のときめき”に憧れていたのです。しかもそれが同一人物によってもたらされたものであることが明かされたとき、聴き手は愛と欲望の“すれ違い”の深さを痛感することになります。
ケイト・ブッシュはこの曲で、「自分を愛してほしいがために他人を演じる」という自己否定の行為が、結果として“自己愛の確認”になるという矛盾を巧みに描いています。それは、ロールプレイ的な欲望と恋愛の本質的な非対称性を浮き彫りにするものであり、恋愛におけるアイデンティティの流動性を早くから提示した先駆的な表現でもあります。
歌詞引用元: Genius – Babooshka
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Jolene by Dolly Parton
他の女性に夫を奪われるかもしれないという女性の心の葛藤を描いた名曲。内面の不安と対峙する点で共通する。 - Luka by Suzanne Vega
家庭の内側に潜む感情を、語りの視点で浮き彫りにする静かな社会派ポップ。女性の複雑な内面性がテーマ。 - Army Dreamers by Kate Bush
戦争と家族をテーマにした悲劇的な視点からの歌。短編映画のような物語性が「Babooshka」と共通する。 - Glory Box by Portishead
「私はただ愛されたい」という女性の静かで強烈な欲望を描いたトリップホップの名曲。性的役割とアイデンティティがテーマ。
6. 愛と変身の寓話——仮面の奥にあった“本当の私”
「Babooshka」は、ケイト・ブッシュが物語性と演劇性を音楽に融合させた代表作のひとつであり、単なるポップソングを超えて、愛と変身にまつわる寓話として機能しています。女性が年齢や役割の変化に直面し、自分の存在価値を再確認しようとするとき、その方法が“他者のふりをする”という奇妙な選択だったというこの物語は、まさに現代に通じるフェミニズム的な問いかけを含んでいます。
また、ケイト・ブッシュのパフォーマンスも楽曲の世界観と深く連動しています。鋭いまなざし、しなやかな身体表現、異国情緒あふれる衣装——そのすべてが“変身”と“仮面”を演出し、リスナーに彼女が“単なる歌手”ではなく“語り部であり女優である”という印象を強く与えました。
「バブーシュカ」とは、愛されたいと願うあまり、自分を失ってしまいそうになるすべての人のための寓話です。その行動は愚かで滑稽でありながら、同時に切なくて美しい。ケイト・ブッシュはこの楽曲で、“愛とは誰かを欺くことではなく、自分自身と再び出会うことなのだ”という、優しくも厳しい真実を、見事な物語とサウンドで表現してみせました。
コメント