1. 歌詞の概要
「Vaseline」は、Elasticaのセルフタイトル・デビュー・アルバム『Elastica』(1995年)に収録された楽曲であり、アルバム中でも特に短く、わずか1分21秒という極端なまでのミニマルな構成で知られている。
だがその短さとは裏腹に、この曲にはElasticaらしいウィット、皮肉、そして鋭利なフェミニズム感覚がぎゅっと凝縮されている。
タイトルの“Vaseline”は、ご存じの通り保湿剤として使われるワセリンを指す。しかし、この曲ではその言葉が性的な意味合いと結びつきながら、比喩として多義的に使われている。肉体的な関係、感情の滑りやすさ、そして物理的・心理的“潤滑”という概念が混ざり合い、非常に短いながらも深いレイヤーを持つ作品となっている。
歌詞は非常にシンプルで繰り返しが多く、一見すると意味の少ない遊びのようにも感じられる。しかしその“間”に宿るアイロニーと、何も語らないことで語るスタイルは、Elasticaが90年代に切り拓いた新しい女性像の象徴でもある。
2. 歌詞のバックグラウンド
Elasticaは、ブリットポップ全盛期の1990年代前半において、異質でありながら強い存在感を放ったバンドである。Justine Frischmannを中心とするこのロンドンの4人組は、BlurやOasisのような“男のロック”とは一線を画し、パンク的なミニマリズムと女性視点のリアリズムを前面に出したサウンドを構築していた。
「Vaseline」はその象徴のような楽曲で、WireやBuzzcocksといった1970年代のポストパンクからの影響が色濃く現れている。短くてストレート、だがその背後には意識的な“省略”と“脱構築”がある。それは、感情や性を過剰に演出せず、むしろ無表情で語ることで、逆に意味が浮かび上がるというアプローチだ。
また、この曲が置かれているアルバム『Elastica』全体が、セクシャルなテーマを率直かつ巧妙に描き出しており、「Vaseline」はその文脈の中でも最もあからさまに“性”と向き合っているトラックである。
3. 歌詞の抜粋と和訳
She’s got a lot of blusher on
彼女はチークをたっぷりつけてる
この一行は、女の子の外見に注目するフレーズに見えるが、実は“見せること”と“隠すこと”の二面性を示唆している。化粧は自己表現でもあり、同時に他者の目を意識した“武装”でもあるのだ。
He’s got vaseline
彼はワセリンを持ってる
この極めて短いラインには、多くの意味が詰まっている。物理的な“潤滑”を象徴しつつ、それは性的な準備、もしくは感情の緩衝材、あるいは誤魔化しの道具としても読み解ける。しかもその“彼”と“彼女”の関係性は語られないまま放置されており、聴き手はそこに多様な解釈を投影せざるを得ない。
No, no, no, no, no
いいえ、いいえ、いいえ、いいえ、いいえ
繰り返される否定のフレーズは、単なるリズムの強調ではなく、女性の拒絶や不快感、もしくは世間の期待への反発を表しているようにも思える。そのシンプルな反復は、まるでひとつの“抗議”のように響く。
※歌詞引用元:Genius – Vaseline Lyrics
4. 歌詞の考察
「Vaseline」は、語らないことで語る曲である。セリフのようにポンと投げ出される言葉たちは、それぞれが未完のまま終わっている。しかしその“空白”にこそ意味が宿っている。
この曲は、女性の身体、性、自己表現をめぐる葛藤や距離感を、短く鋭利な言葉とパンクサウンドで刻印している。彼女(She)はチークを塗ることで何かを隠し、彼(He)はワセリンを持つことで準備している――その二人の間にある“行為”や“感情”は、決して歌詞には登場しない。だがそれこそがこの曲の力なのだ。
Elasticaの特徴は、“率直さ”と“距離感”の絶妙なバランスにある。「語るが、すべては語らない」「見せるが、核心には触れない」――この態度は、90年代の女性たちが直面していた“性の自由とその危うさ”を象徴しているようにも思える。
そしてこの「Vaseline」という、誰もが知っているアイテムを題材にしたところにこそ、日常と性、曖昧さと現実の交差点を描くElasticaの真骨頂がある。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Plump by Hole
身体性と怒り、女性性のリアリズムが爆発するグランジの名曲。 - Violet by Courtney Love
性の権力構造を逆手にとった、切迫感あるフェミニズムの歌。 - Oblivion by Grimes
自己防衛と性的な脆さをエレクトロポップで描いた、現代版の女性像。 -
XXX by Le Tigre
セックスと規範を巡るポストフェミニストのミニマルなパンク。 -
Christine by Siouxsie and the Banshees
多重人格と女性の心の裂け目を幻想的に描いたポストパンクの異端。
6. 短さの中に宿る、フェミニズムの鋭さ
「Vaseline」は、わずか1分21秒という短さで、リスナーに何かを“突きつける”曲である。それは明確なメッセージではなく、未定義の問いかけであり、明言を避けた感情の断片である。
そしてその不明瞭さこそが、フェミニズム的表現の成熟であるとも言える。語らないことで想像を促し、断言しないことで複雑な感情を残す。
Elasticaは、“語らないこと”によって“すべてを語る”という高度な表現に挑み、それをポップ・パンクというフォーマットの中で実現してみせたのだ。
「Vaseline」は、怒鳴らず、叫ばず、微かに笑いながら拒絶する。
その態度にこそ、90年代を駆け抜けたElasticaの美学が詰まっている。
それは、軽く見えるが決して軽くない、“音の中の沈黙”のような曲なのである。
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