1. 歌詞の概要
「Trouble Man」は、1972年にリリースされたマーヴィン・ゲイの同名映画のサウンドトラック・アルバム『Trouble Man』のタイトル曲であり、自己肯定、強さ、そして複雑な都市生活における黒人男性のリアリティを見事に体現した一曲である。
この曲の主人公は、“トラブルに満ちた男”だ。
だがそれは決してネガティブな意味ではなく、困難な状況の中でも自分を失わず、すべてを引き受けながら前に進む存在として描かれている。
「I come up hard, baby, but now I’m cool(苦労してきたけど、今は落ち着いてる)」という一節に象徴されるように、この曲には過去の傷を抱えつつもそれを力に変えるという、しなやかな強さがある。
また、「Trouble Man」はそれまでのマーヴィンの社会的な嘆きや祈りのトーンとは異なり、より内省的で個人的な物語として成立している。
それが結果として、黒人男性の“都市の神話”を新たに書き換えるような楽曲になっているのだ。
2. 歌詞のバックグラウンド
1971年に『What’s Going On』で社会派ソウルという新たな地平を切り拓いたマーヴィン・ゲイは、その翌年、映画『Trouble Man』の音楽を手がけるという新たな挑戦を引き受けた。
この映画は、いわゆる“ブラックスプロイテーション(Blaxploitation)映画”の一つであり、犯罪と正義、都市の裏社会と個人の生き様を描いたストリート・ドラマである。
マーヴィンは単なるBGM作りではなく、主人公“ミスターT”の心理と都市の空気感を、ジャズやファンク、ソウルを織り交ぜた音楽で立体的に描き出した。
その中で主題歌となる「Trouble Man」は、映画の中の主人公を超えて、マーヴィン自身の生き様や人生観を投影した曲でもある。
当時のマーヴィンは、音楽業界の重圧、家族との葛藤、社会問題への関心、個人的な不安など、様々な“トラブル”を抱えていた。
だからこそこの曲は、映画のために書かれたにもかかわらず、どこまでもマーヴィン・ゲイ個人の“内なる告白”として響くのだ。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下は「Trouble Man」の印象的な一節。引用元は Genius Lyrics。
I come up hard, baby, but now I’m cool
苦労してきたさ、でも今は落ち着いてるんだI didn’t make it, sugar, playin’ by the rules
ルール通りに生きてきたわけじゃないけど、ここまで来た
ここには、“正しい道”を選ばなくても、自分のやり方で困難を乗り越えてきた男の誇りがある。
過去の傷も、反則も、今の自分を形作る“財産”なのだ。
I’ve come up hard, baby, but now I’m fine
苦労してきたけど、今はもう平気さI’m checkin’ trouble, sugar, movin’ down the line
トラブルなんて見張って、前に進んでるんだ
“トラブル”を敵として排除するのではなく、それを“見張りながら進む”という比喩に、強さと用心深さを併せ持った成熟した人物像が浮かび上がる。
There’s only three things that’s for sure
確かなことが3つだけあるTaxes, death and trouble
税金、死、そしてトラブルだ
この名ラインは、アメリカ都市社会に生きる者にとって避けられない現実を、ウィットとともに提示している。
そこには苦笑と達観が共存しており、“トラブル”は脅威ではなく、もはや日常の一部として受け止められている。
4. 歌詞の考察
「Trouble Man」は、**マーヴィン・ゲイという人間の“顔の見えるソウル”**であり、彼が外の世界と自分自身の間でどうバランスを取っていたのかがよくわかる作品である。
『What’s Going On』で外界を見つめた彼は、この曲では内なる自分に焦点を当てている。
だがそこには自己憐憫はない。
むしろ、「トラブルは常にある。それでも俺は立っている」という、静かな誇りがある。
この曲が持つ“都市の男の強さ”の表現は、ジェームズ・ブラウンのようなアグレッシブなマッチョイズムとは違い、しなやかで知的、そして情感に富んだものである。
暴力でも支配でもなく、「俺には俺のやり方がある」という生き方を提示しているのだ。
サウンド面でも、ジャズ的なコード進行と緊張感あるベースライン、ミッドテンポのグルーヴ感が、都市の“煙るような夜”を思わせるムードを作り出している。
それは犯罪や暴力の話をしていながらも、あくまで洗練されていて、エレガントですらある。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Papa Was a Rollin’ Stone by The Temptations
父と都市の闇をテーマにした、ドラマティックなソウル・ドキュメンタリー。 - The Payback by James Brown
ファンクの力で自己肯定と復讐をテーマにした、骨太の男のブルース。 - Superfly by Curtis Mayfield
ブラックスプロイテーション映画のサウンドトラックから。反抗と美学が交差する名曲。 - Across 110th Street by Bobby Womack
ハーレムを舞台にした映画の主題歌で、都市における黒人の現実を優しく、鋭く描く。 - Inner City Blues (Make Me Wanna Holler) by Marvin Gaye
より社会的で広い視点から都市の苦しみを歌った作品。『Trouble Man』と対をなす。
6. “トラブルを引き受ける男”という神話の書き換え
「Trouble Man」は、マーヴィン・ゲイが**“弱さも含めて、自分を誇る”という新しいヒーロー像**を提示した作品である。
それは決して無敵の男ではない。
過去に傷を負い、間違いを犯し、弱さを知っている。
だが、それゆえに誰よりも強い——そんな**“しなやかな強さ”と“孤独な誇り”**がこの曲には漂っている。
現代においても、多くの人が「トラブルの中にいる」。
不安定な仕事、社会的プレッシャー、人種、ジェンダー、階級——あらゆる“見えない壁”の中で、それでも自分を見失わずに生きる者たちにとって、
この曲は、静かなるアンセムとして今なお鳴り響いている。
“I’m a trouble man. But I’m just fine.”
そうつぶやくとき、私たちは少しだけ強くなれるのかもしれない。
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