発売日: 2023年1月20日
ジャンル: シンセ・ポップ、ドリーム・ポップ、ニュー・ウェイヴ、ダーク・ウェイヴ、エレクトロニカ
概要
『Time’s Arrow』は、UKのエレクトロニック・バンド、レディトロン（Ladytron）が2023年に発表した7枚目のスタジオ・アルバムであり、時間、記憶、夢、そして喪失と回復という主題を、“過去と未来が重なる音像”によって描き出した、深い精神性と美学を携えた一枚である。
前作『Ladytron』（2019年）ではポスト・ブレグジット的な崩壊感や都市の不安を音像に刻み込んでいたが、本作ではそれらの混乱を越えて、より個人的・内面的な時間軸へと向かう回帰的作品となっている。
アルバムタイトルの“Time’s Arrow（時の矢）”は、不可逆的に前進し続ける時間の流れと、そこに立ちすくむ人間の意識の対比を象徴しており、
それは「記憶の美しさ」と「忘却の必然性」の間で揺れる全編のトーンに見事に表れている。
レディトロンらしい硬質なシンセサウンドと幽玄なボーカルは健在だが、今作ではより広がりのある空間系の処理、ドリーミーなサウンドレイヤー、そして“見えないもの”を音で表す繊細なアレンジが特徴的である。
全曲レビュー
1. City of Angels
煌びやかなシンセとミドルテンポのビートで幕を開ける本作の導入曲。
「天使の街＝ロサンゼルス」というモチーフを通じて、夢と幻滅が交錯する現代都市の美と虚無が描かれる。
サウンドは明るくとも、どこか影を帯びており、“光の奥にある夜”を予感させる。
2. Faces
より内省的なトーンが強まる2曲目。
繰り返される「Faces」という単語が、人間関係や記憶のなかに残された“他者の顔”の象徴となっており、
人間の輪郭が徐々に溶けていくような錯覚的サウンドスケープが秀逸。
3. Misery Remember Me
甘いメロディと耽美的な構成によるバラード風ナンバー。
「悲しみよ、私を忘れないで」という逆説的な願いがタイトルに込められており、
感情すら時間によって風化していくことへの抵抗として響く。
4. Flight from Angkor
タイトルが示す通り、東南アジアの神秘的なイメージを想起させる空間音響が特徴。
具体的な物語というよりも、場所の記憶や風景の残像を音にしたようなトリップ感に満ちている。
5. We Never Went Away
リリックには登場しないが、全体が「去っても、ずっとそこにいる」という“存在の余韻”を感じさせる。
かつての自分、離れた誰か、すでに終わった出来事が、記憶のなかで生き続ける感覚を具象化する。
6. The Night
夜という時間の中にしか現れない真実や欲望を描いたミッドテンポの楽曲。
Ladytronの十八番である**“冷たくも官能的な夜の音楽”**として、ファンにとっては馴染み深い構成。
7. Time’s Arrow
表題曲にして本作の核心。
“時間の矢”というテーマを、音の層とシーケンスの繰り返しによって表現。
時間が一方向にしか進まないことの恐怖と、そこに漂う“手放すこと”の美学が語られる。
どこか哲学的で、無音との間合いも絶妙。
8. California
再びロサンゼルスを連想させる一曲。
“憧れと危うさ”、“眩しさと焦土”という二項対立を音と詞で表現し、
幻想に飲まれた都市の残酷さを見つめるような眼差しがある。
9. Losing Touch
人との繋がりが希薄化していく現代的テーマを、音的にはきらびやかなシンセ・ポップの形式で裏返しに提示。
メロディの快楽性とは裏腹に、リリックには深い寂寥がある。
10. Sargasso Sea
タイトルは“サルガッソー海”、つまり流れのない海域を示す。
まさに浮遊感、停滞感、そして“無意識の深層”を音にしたような曲であり、
アルバム全体の終盤に向けた静かな沈降を導く役割を担う。
11. Tomorrow’s a New Day
締めくくりにふさわしい穏やかでメロディアスなエンディング・トラック。
「明日は新しい日」――という希望の言葉が、決して前向きすぎず、どこか淡々と受け入れられるような、静かな肯定感として響く。
“時間の矢”に追われながらも、やがてそれを味方に変えていくような余韻を残す。
総評
『Time’s Arrow』は、Ladytronが**“時間と記憶、そして個としての感情”に深く向き合った、最も詩的で、最も瞑想的なアルバム**である。
前作までに見られた政治性や都市の暴力性は後景に引き、代わって現れるのは、失われていくものの美しさ、無音と音のあわいにある感情の輪郭である。
それはシンセ・ポップというジャンルの枠組みを超えて、音楽というメディアが時間とどう向き合えるかという問いに静かに答えているようでもある。
煌めきと寂しさ、遠さと親密さ、過去と未来――それらが矛盾せずに共存する場所がこのアルバムのなかにある。
Ladytronは『Time’s Arrow』で、**“終わることを恐れない、優しい終末感”**を音で表現したのだ。
おすすめアルバム（5枚）
- Beach House『Once Twice Melody』
幻想と現実、昼と夜のあいだに浮かぶ夢幻ポップの傑作。 - Slowdive『Everything Is Alive』
時間と記憶をテーマにした現代的シューゲイザー作品。Ladytronの静的美学と重なる。 - M83『DSVII』
ゲーム音楽的ミニマリズムと哲学的ドリーム・ポップの融合。 - Gwenno『Tresor』
消滅しかけた言語と記憶を蘇らせるようなエレクトロ・フォーク。文化の忘却と時間性が共通。 - The Knife『Tomorrow, In a Year』
ダーウィンを題材にしたコンセプト・アルバム。時間と進化のテーマを抽象化した作品として響き合う。
歌詞の深読みと文化的背景
『Time’s Arrow』のリリック群は、Ladytronがこれまでの作品で積み重ねてきた匿名性・無機質性・都市性といった要素から距離を置き、個人的・情緒的な語りを明確に増やしたという点で特筆に値する。
「Misery Remember Me」「We Never Went Away」「Losing Touch」などの楽曲には、**人間関係の終焉や喪失、それに続く“記憶の風景化”**が繰り返し登場し、
それらは明確な物語としてではなく、感情の残像や音の印象としてリスナーの中に定着していく。
また、“時間”というテーマは、直線的な進行としてではなく、“戻れないけれど忘れられない”というジレンマの象徴として扱われ、
タイトル曲「Time’s Arrow」では、**“不可逆性への詩的な諦念”**が音とリリックに同時に漂っている。
Ladytronはこのアルバムで、“失われていくすべて”を否定せず、むしろその美しさを受け入れることの勇気を提示した。
『Time’s Arrow』とは、忘れることと、思い出すことのあいだに漂う音楽の記録なのである。
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