
発売日:2009年10月6日
ジャンル:インディー・ロック、オルタナティヴ・ロック、ギター・ロック、サイケデリック・ロック、ジャングル・ポップ
概要
Built to SpillのThere Is No Enemyは、2009年に発表された通算7作目のスタジオ・アルバムであり、1990年代USインディー・ロックを代表するギター・バンドが、長いキャリアの中で培ってきた叙情性、即興的なギター・アンサンブル、内省的な歌詞を、成熟した形で再構成した作品である。Built to Spillは、Doug Martschを中心にアイダホ州ボイシで結成され、1990年代半ば以降のアメリカン・インディー・ロックにおいて、PavementやModest Mouse、Dinosaur Jr.、Sebadohなどと並び、ギター・ロックの可能性を拡張した重要な存在である。
Built to Spillの音楽の特徴は、単純なローファイ・ロックやオルタナティヴ・ロックに収まらない。Doug Martschの高く不安定なヴォーカル、Neil YoungやJ Mascisを思わせる長く伸びるギター・ソロ、ポップなメロディと即興的な演奏の共存、そして人生や時間についての哲学的で素朴な歌詞が、独特の魅力を作っている。彼らは激しく叫ぶバンドではないが、ギターの重なりと揺れるメロディによって、静かな感情の波を大きなスケールへ広げることができるバンドである。
There Is No Enemyは、前作You in Reverseから約3年を経て発表された作品であり、2000年代後半のBuilt to Spillの状態をよく示している。1997年のPerfect from Now Onや1999年のKeep It Like a Secretが持っていた決定的なインパクトと比較すると、本作はより落ち着き、肩の力が抜けている。しかし、その落ち着きは後退ではなく、成熟の表れである。長いキャリアを経たバンドが、無理に時代の流行へ近づくのではなく、自分たちの音楽語法を自然に深めたアルバムといえる。
タイトルのThere Is No Enemyは、「敵はいない」という意味を持つ。これは一見するとシンプルな平和主義的フレーズのようにも見えるが、アルバム全体を聴くと、より内面的で複雑な意味を帯びる。本作には、怒り、失望、老い、時間、愛、孤独、死、世界への違和感が繰り返し現れる。しかし、それらを外部の明確な敵に押しつけるのではなく、自分自身の認識や人生の避けがたい流れとして受け止めようとする姿勢がある。敵がいないということは、問題が存在しないという意味ではない。むしろ、敵という単純な構図に回収できないほど、人生は複雑だということである。
音楽的には、本作はBuilt to Spillらしいギター・ロックが中心である。曲ごとに複数のギターが絡み合い、短いリフやアルペジオが重なり、時には長いソロへ発展する。ただし、演奏は誇示的なハード・ロックではない。ギターは感情の延長として鳴り、歌詞の曖昧さや心の揺れを補うように展開する。Doug Martschの声は依然として細く、少し頼りなく、しかしその頼りなさが楽曲に人間的な脆さを与えている。
本作は、Built to Spillのキャリアの中ではやや過小評価されがちなアルバムである。彼らの代表作として語られるのは多くの場合、Perfect from Now OnやKeep It Like a Secretであり、本作はその後の安定期の作品として見られることが多い。しかし、There Is No Enemyには、若いバンドの衝動ではなく、長く音楽を続けてきた人間だけが表現できる諦念と温かさがある。大きな革新を求めるアルバムではなく、Built to Spillというバンドの核心が穏やかに、しかし確かに表れた作品である。
2009年という時代背景において、本作はインディー・ロックの変化の中に置かれていた。2000年代後半には、Animal Collective、Grizzly Bear、Fleet Foxes、Arcade Fire、The Nationalなどがインディー・シーンの中心的存在となり、サウンドはより多様化していた。電子音、フォーク、チェンバー・ポップ、アート・ロックが広がる中で、Built to Spillはあくまでギター・ロックの文法を保ち続けた。だが、その姿勢は保守的というより、ギター・ロックが持つ時間感覚と感情表現を信じ続けるものだった。
日本のリスナーにとって、There Is No Enemyは、Built to Spillの入門としても、キャリア後期の成熟を知る作品としても聴ける。派手なヒット曲や時代を変えるような衝撃はないが、曲を追うごとに、ギターの響き、声の揺れ、言葉の余韻がじわじわと残る。インディー・ロックにおける「大きな音」と「小さな感情」の結びつきを味わうための、非常に豊かなアルバムである。
全曲レビュー
1. Aisle 13
「Aisle 13」は、アルバムの冒頭曲として、Built to Spillらしいギターの絡み合いと、少しずれた日常感覚を提示する楽曲である。タイトルの「Aisle」は通路や売り場の列を意味し、「13」という数字は不吉さや偶然性を連想させる。スーパーや店内の通路のような日常的な場所に、奇妙な違和感が差し込むようなタイトルである。
サウンドは、軽快なギター・ロックとして始まりながら、Built to Spill特有の浮遊感を持っている。ギターは一つのリフを強く押し出すというより、複数の線が絡み合いながら曲を前へ進める。Doug Martschのヴォーカルは、張り上げるのではなく、少し頼りない声で言葉を置いていく。その声が、曲に親密さと不安定さを与えている。
歌詞では、日常の中で感じる違和感や、自分の居場所を見失うような感覚が描かれているように聴こえる。Built to Spillの歌詞は、明確な物語を語るというより、思考の断片や感情の揺れを提示することが多い。この曲でも、具体的な場所の名前がありながら、それは現実の売り場というより、迷い込んだ精神的な空間のように響く。
「Aisle 13」は、本作の入口として非常に自然である。大きな宣言ではなく、日常の少し奇妙な場所からアルバムが始まる。Built to Spillは、壮大なテーマを扱うときも、まずは小さな感覚や違和感から入るバンドである。その特徴がよく表れたオープニングである。
2. Hindsight
「Hindsight」は、過去を振り返ること、後から分かること、失敗や選択を時間の距離から見つめることをテーマにした楽曲である。タイトルの「hindsight」は「後知恵」を意味し、過去の出来事がその時点では理解できず、後になって初めて意味を持つという感覚を示している。
サウンドは穏やかで、メロディアスであり、本作の中でも特に聴きやすい曲のひとつである。ギターはきらめくように鳴り、リズムは急ぎすぎず、曲全体に柔らかい前進感がある。Built to Spillのポップな側面がよく出ており、長いギター・ソロに頼らずとも、曲の核となるメロディの強さがある。
歌詞では、過去を見返したときに生まれる複雑な感情が描かれる。後になれば物事は分かる。しかし、分かったからといって過去を変えることはできない。そこには諦めと学びが同時にある。Doug Martschの歌声は、このテーマに非常によく合っている。彼の声には、断定ではなく、少し迷いながら受け入れるような響きがある。
「Hindsight」は、There Is No Enemyの成熟を象徴する楽曲である。若い怒りや焦燥ではなく、過去を抱えたまま前に進む感覚がある。敵を外側に探すのではなく、自分の選択や記憶と向き合う。本作のタイトルにも通じる、穏やかな自己認識の歌である。
3. Nowhere Lullaby
「Nowhere Lullaby」は、本作の中でも特に静かで、夢のような感触を持つ楽曲である。タイトルは「どこでもない場所の子守歌」という意味を持ち、居場所のなさ、漂流感、眠りと孤独を連想させる。Built to Spillの内省的な側面が強く表れた曲である。
サウンドは抑制され、ゆったりとしたテンポで進む。ギターは強く歪むのではなく、空間の中に柔らかく広がる。曲全体には、夜の終わりや眠りに落ちる直前のような曖昧な空気がある。タイトル通り、子守歌的な穏やかさを持ちながら、完全に安心できるわけではない。
歌詞では、「どこでもない場所」にいるような感覚が描かれる。これは物理的な場所の不在であると同時に、精神的な居場所のなさでもある。眠りへ向かう子守歌は本来、安心を与えるものだが、この曲ではその安心の中にも空虚さが残る。誰かに眠らされるのではなく、自分自身を静めようとしているようにも聴こえる。
「Nowhere Lullaby」は、Built to Spillの音楽が持つ繊細な曖昧さをよく示す楽曲である。悲しいとも、穏やかとも言い切れない。曲は大きく解決せず、ただその感情の中に留まる。この留まり方こそが、Built to Spillの成熟した表現である。
4. Good Ol’ Boredom
「Good Ol’ Boredom」は、退屈をテーマにした楽曲である。タイトルには「懐かしき退屈」というような皮肉があり、退屈を単に否定するのではなく、どこか馴染み深いものとして扱っている。Built to Spillの歌詞には、人生の大きなドラマよりも、日常に沈殿する感情がよく現れるが、この曲はその代表例である。
サウンドは明るく、ギター・ロックとしての推進力がある。退屈を歌っているにもかかわらず、曲自体は退屈ではない。むしろ、ギターの絡み合いとリズムの弾みが、日常の中にある小さな活力を表現している。Built to Spillは、悲観的なテーマを扱っても、音楽そのものを閉じ込めない。
歌詞では、退屈が人間の生活にどれほど深く入り込んでいるかが描かれる。退屈は敵ではない。むしろ、長く生きる中で繰り返し出会う古い知人のようなものとして扱われる。ここには、年齢を重ねたソングライターならではの視点がある。若い頃なら退屈は破壊すべきものかもしれないが、本作ではそれを受け入れるようなニュアンスがある。
「Good Ol’ Boredom」は、There Is No Enemyというタイトルと非常に相性のよい楽曲である。退屈さえも敵ではない。人生の一部として付き合うしかないものとして描かれる。Built to Spillらしい、ユーモアと諦念が混ざった曲である。
5. Life’s a Dream
「Life’s a Dream」は、アルバムの中でも特に長く、Built to Spillの壮大なギター・ロックの魅力がよく出た楽曲である。タイトルは「人生は夢」という意味を持ち、現実の不確かさ、時間の儚さ、存在の曖昧さを示している。Built to Spillの哲学的な側面が前面に出た重要曲である。
サウンドはゆっくりと広がり、ギターの重なりが曲のスケールを大きくしていく。Doug Martschの声は、現実を断定するのではなく、夢の中で言葉を探すように響く。曲は急がず、時間をかけて感情を積み上げる。Built to Spillが得意とする、長尺の中でギターが風景を作る手法が美しく表れている。
歌詞では、人生が夢のようであるという感覚が描かれる。これはロマンティックな逃避ではなく、現実そのものがどこか不確かで、完全には把握できないという認識に近い。人は人生を生きているつもりでも、後から振り返ると夢のように感じる。そこには美しさと虚しさが同時にある。
この曲の重要性は、Built to Spillがギター・ロックを通じて存在論的な感覚を表現できる点にある。大げさな言葉ではなく、ギターの持続と声の揺れによって、人生の曖昧さを音楽化する。「Life’s a Dream」は、本作の精神的な中心のひとつである。
6. Oh Yeah
「Oh Yeah」は、タイトルだけを見ると軽いロック・ソングのように思えるが、Built to Spillの文脈では、単純な肯定や高揚ではなく、少し皮肉を含んだ反応のように響く。短いフレーズが持つ曖昧さを利用した楽曲であり、本作の中では比較的リズム感とポップさが前に出ている。
サウンドはギターが軽やかに動き、曲全体に明るい推進力がある。Built to Spillの演奏は、シンプルなロック・フォーマットの中でも、ギターの線が複雑に絡むことで独特の質感を生む。この曲でも、表面上は分かりやすいが、細部にはバンドらしい揺らぎがある。
歌詞では、物事への反応や、誰かとのやり取りの中で生まれる軽い肯定が扱われているように聴こえる。しかし、その「Oh Yeah」は完全な同意なのか、皮肉なのか、諦めなのか曖昧である。Doug Martschの歌い方も、力強い肯定というより、少し距離を置いた反応として響く。
「Oh Yeah」は、アルバムの中で重くなりすぎないバランスを作る楽曲である。哲学的な曲や長尺のギター展開の間に、こうした軽さがあることで、本作は自然な流れを持つ。Built to Spillのポップな柔軟性が表れた一曲である。
7. Pat
「Pat」は、本作の中でも特に強い感情を持つ楽曲であり、友人でありミュージシャンであった人物への追悼として知られる曲である。タイトルの「Pat」は個人名であり、抽象的なテーマではなく、具体的な誰かの不在が曲の中心にある。Built to Spillの作品の中でも、非常に切実な一曲である。
サウンドは力強く、ギターには感情の噴出がある。曲は比較的ストレートなロックとして進み、悲しみを静かに沈めるのではなく、演奏のエネルギーとして外へ出している。Doug Martschの声は、いつものように細く揺れているが、この曲ではその揺れが喪失感として強く響く。
歌詞では、亡くなった人物への思い、残された者の感情、死をどう受け止めるかが描かれる。Built to Spillは感傷的に泣き崩れるのではなく、具体的な名前を掲げることで、その不在を直接示す。死は抽象的な哲学ではなく、誰かがいなくなることとして現れる。
「Pat」は、There Is No Enemyの中で非常に重要な楽曲である。アルバム全体には、敵の不在、人生の夢のような感覚、退屈や後悔の受容があるが、この曲ではそれが死という現実と接続される。敵がいなくても、喪失は起こる。人生の理不尽さを、Built to Spillはギターの響きによって受け止めている。
8. Done
「Done」は、終わり、疲れ、諦め、あるいは何かをやり切った感覚をテーマにした楽曲である。タイトルは非常に短く、「終わった」「済んだ」という意味を持つ。その簡潔さが、曲の感情を強くしている。
サウンドはミドル・テンポで、やや重い響きがある。ギターは厚く鳴るが、攻撃的というより、疲労を含んだ重さである。Built to Spillの演奏には、激しさよりも持続する感情がある。この曲でも、終わりに向かう感覚がじわじわと音に表れている。
歌詞では、何かがもう終わってしまったこと、あるいは自分がそこから離れるしかないことが描かれる。関係、人生の一局面、信念、努力。何が終わったのかは明確に限定されないが、その曖昧さがかえって普遍的である。人は何度も「もう終わりだ」と感じながら、それでも次の日を迎える。
「Done」は、本作の中で諦めの感情を担う楽曲である。ただし、完全な絶望ではない。終わりを認めることは、次の段階へ進むための必要な行為でもある。Built to Spillらしい、静かな強さを持つ曲である。
9. Planting Seeds
「Planting Seeds」は、種を植えること、未来へ向けた行為、目に見えない成長をテーマにした楽曲である。アルバム後半に置かれることで、喪失や諦めの後に、わずかな希望や継続の感覚をもたらす。
サウンドは明るく、ギターの響きにも開放感がある。Built to Spillの曲における希望は、大きな勝利宣言ではなく、小さな行為として表れる。この曲でも、種を植えるという地味で時間のかかる行為が、未来への信頼の象徴になっている。
歌詞では、今すぐ結果が見えなくても、何かを始めることの意味が描かれる。種を植えることは、成長を完全にコントロールすることではない。土に置き、水を与え、待つしかない。その不確かさは、音楽や人生にも通じる。Built to Spillが長く音楽を続けてきたこととも重なるテーマである。
「Planting Seeds」は、There Is No Enemyの中で前向きな役割を持つ楽曲である。ただし、その前向きさは安易ではない。喪失や退屈、後悔を知ったうえで、それでも何かを植える。その控えめな希望が、非常にBuilt to Spillらしい。
10. Things Fall Apart
「Things Fall Apart」は、崩壊、分裂、物事がばらばらになっていく感覚をテーマにした楽曲である。タイトルは非常に重く、文学的な響きも持つ。人間関係、社会、自分自身の内面、人生の計画。あらゆるものが崩れていくことへの認識が曲の中心にある。
サウンドは抑制され、暗い情感を持つ。ギターは派手に爆発するのではなく、静かに崩れていく感覚を支える。Doug Martschの声は、悲しみを大きく叫ぶのではなく、すでに崩壊を受け入れかけているように響く。
歌詞では、物事が思い通りに保てないこと、関係や世界が自然に壊れていくことが描かれる。重要なのは、ここで崩壊の原因が明確な敵に求められていない点である。物事はただ崩れる。人はそれを止めようとするが、完全には止められない。この認識は、アルバムタイトルThere Is No Enemyと深くつながる。
「Things Fall Apart」は、本作の中でも最も深い諦念を持つ楽曲である。崩壊を嘆きながらも、その崩壊を人生の一部として見つめる。Built to Spillの成熟した悲しみがよく表れている。
11. Tomorrow
「Tomorrow」は、アルバムの終盤において、未来への視線を提示する楽曲である。タイトルは「明日」を意味し、非常にシンプルだが、ここには希望と不確かさが同時にある。明日は来るが、その明日が良いものになる保証はない。それでも人は明日へ向かう。
サウンドは穏やかで、終盤らしい余韻を持つ。ギターは柔らかく広がり、曲全体に少しの光が差し込む。Built to Spillの終盤曲らしく、大きなカタルシスではなく、静かな前進感がある。
歌詞では、未来を待つこと、今日を越えること、時間が続くことへの感覚が描かれる。過去を振り返る「Hindsight」と対になるように、この曲ではまだ来ていない時間がテーマになる。過去は変えられず、現在は不安定で、未来は分からない。それでも明日は来る。
「Tomorrow」は、There Is No Enemyの中で、完全ではない希望を担う楽曲である。Built to Spillは、明日がすべてを解決するとは歌わない。だが、明日があること自体に、わずかな救いがある。その控えめな前向きさが、本作の余韻を形作る。
総評
There Is No Enemyは、Built to Spillのキャリアにおいて、派手な転換点ではなく、成熟した確認のアルバムである。1990年代の代表作群が持っていた若々しい拡張性や、ギター・ロックを押し広げるような野心に比べると、本作はより落ち着き、人生の後半へ向かうような視点を持っている。しかし、その落ち着きの中にこそ、Built to Spillの深い魅力がある。
アルバム全体を貫くテーマは、受容である。過去を振り返る「Hindsight」、退屈を扱う「Good Ol’ Boredom」、人生を夢のように見る「Life’s a Dream」、喪失を歌う「Pat」、崩壊を見つめる「Things Fall Apart」、未来へ視線を向ける「Tomorrow」。これらの曲は、人生の問題を明確な敵として設定しない。怒りや苦しみは存在するが、それを単純に誰かや何かのせいにはしない。そこに、There Is No Enemyというタイトルの深さがある。
音楽的には、Built to Spillの持ち味であるギター・アンサンブルが非常に安定している。複数のギターが絡み、時に長いソロへ発展し、歌のメロディと演奏の広がりが一体となる。Doug Martschのギターは、技巧を誇示するためのものではなく、感情や思考の延長として鳴る。彼のソロは、泣き叫ぶというより、長く考え続けるように展開する。この思考するギターこそが、Built to Spillの大きな個性である。
Doug Martschのヴォーカルも、本作の重要な要素である。彼の声は力強いロック・シンガーの声ではなく、細く、少し不安定で、時に頼りなく響く。しかし、その声だからこそ、歌詞の迷いや諦め、弱さが自然に伝わる。Built to Spillの音楽は、強い人間の宣言ではなく、不完全な人間の思考に近い。その不完全さが、聴き手に長く残る。
本作は、インディー・ロックにおける年齢の重ね方を示す作品でもある。若いバンドのように新しさを競うのではなく、長く続けてきた音楽的言語を少しずつ深める。派手な実験や時代への迎合は少ないが、その分、曲には誠実さがある。Built to Spillはここで、自分たちが何者であるかをよく理解している。ギターを鳴らし、疑問を歌い、人生の曖昧さをそのまま置いておく。その姿勢が本作を支えている。
一方で、There Is No Enemyは、初期から中期の代表作ほど即効性があるわけではない。Perfect from Now Onの壮大な構成や、Keep It Like a Secretの曲単位の鮮烈さと比べると、本作はやや穏やかで、地味に感じられる可能性がある。しかし、その地味さは弱点というより、聴き込むことで価値が増す性質である。アルバム全体に漂う疲労、優しさ、諦め、微かな希望は、時間をかけて浸透する。
歴史的に見ると、本作は2000年代後半のインディー・ロックにおいて、ギター・ロックの持続的な価値を示した作品である。多くの新しいサウンドが登場する中で、Built to Spillは自分たちの方法を大きく変えなかった。しかし、それは過去への固執ではなく、ギター・ロックがまだ深い表現力を持ちうることの証明だった。音の流行よりも、時間、記憶、感情をどう鳴らすかが重要だったのである。
日本のリスナーにとって、本作はBuilt to Spillの代表作を聴いた後に、彼らの成熟した側面を知るための重要なアルバムである。若い衝動や鋭い個性よりも、長く続く感情の揺れを味わう作品であり、Neil Young的なギターの叙情性や、Dinosaur Jr.以後のインディー・ギター・ロックを好むリスナーにも響く内容を持っている。
総合的に見て、There Is No Enemyは、Built to Spillが長いキャリアの中で到達した静かな充実作である。敵はいない。しかし、退屈はある。後悔はある。死はある。崩壊はある。明日もある。そうした人生の複雑な現実を、敵対や勝利の物語ではなく、ギターの響きと揺れる声によって受け止める。そこに、このアルバムの深い美しさがある。
おすすめアルバム
1. Built to Spill — Perfect from Now On
Built to Spillの代表作のひとつであり、長尺の楽曲、複雑なギター・アンサンブル、哲学的な歌詞が高い密度で結びついた名盤。There Is No Enemyの成熟したギター表現の原点を知るうえで欠かせない作品である。
2. Built to Spill — Keep It Like a Secret
Built to Spillの中でも特に聴きやすく、メロディアスな楽曲が揃った代表作。ギター・ロックとしての即効性とインディー的な繊細さが両立しており、There Is No Enemyの穏やかなポップ性へつながる重要作である。
3. Built to Spill — You in Reverse
There Is No Enemyの前作であり、よりジャム的で荒いギター演奏が目立つ作品。バンドとしての即興性や長尺志向が強く、2000年代のBuilt to Spillの流れを理解するうえで重要である。本作との比較によって、There Is No Enemyの整理された成熟が見えやすくなる。
4. Dinosaur Jr. — Where You Been
J Mascisの轟音ギターとメロディアスなソングライティングが結びついた1990年代オルタナティヴ・ロックの重要作。Built to Spillのギター・ソロの叙情性や、弱さを含んだヴォーカルの魅力と深く通じる。ギター・ロックの感情表現を理解するうえで関連性が高い。
5. Modest Mouse — The Lonesome Crowded West
アメリカ北西部のインディー・ロックにおける重要作であり、広大な土地感覚、孤独、社会への違和感、複雑なギター・アレンジが特徴である。Built to Spillとは異なる荒さを持つが、同じ地域的・精神的なインディー・ロックの文脈で聴くと非常に関連性が高い。

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