発売日: 2022年9月16日
ジャンル: インディー・ポップ、オルタナティブ・ロック、ドリーム・ポップ
概要
『The Trouble with Fever』は、ミシェル・ブランチが2022年に発表したソロ4作目のアルバムであり、
内省的かつ退廃的なムードをまとった、夜の感情を描く“ひとりの女性による音楽日記”のような作品である。
前作『Hopeless Romantic』から約5年、そして離婚という人生の大きな節目を経て、
ブランチはよりパーソナルで実験的な表現へと踏み込んだ。
本作はパンデミック中の自宅スタジオで、再びパトリック・カーニーと共に録音された。
機材は最小限、音もローファイ。それが却って夜更けのモノローグのようなリアリティと親密さを作品に与えている。
「発熱(Fever)」という比喩は、恋愛・欲望・怒り・孤独といった複雑な感情の高まりと沈静を意味し、
その“熱”をどう扱えばいいのか分からないまま、ミシェルは歌い続けている。
全曲レビュー
Intro
無機質なシンセサウンドとノイズが混じる30秒のイントロ。
まるで夢の中に誘われるような、不安定さと静けさが共存する導入。
Not My Lover
“もうあなたは恋人じゃない”と突き放しながら、どこか残る未練。
ロー・テンポでサイケなギターとシンセが絡み合う。
愛の崩壊後に残る感情の余熱を静かに描く1曲。
Fader
“私の音をフェードアウトさせないで”というフレーズが印象的。
自身の存在や感情が“薄れていく”感覚への抵抗と、どこか諦めの混ざるラブソング。
タイトル通り、音と心がじわじわと消えていく構成が切ない。
You Got Me Where You Want Me
“あなたの手のひらの上”にいることを自覚する語り口。
依存と欲望の狭間で揺れる心理が、サウンドの浮遊感と共鳴する。
ドリーム・ポップ的アプローチが心地よい。
I’m a Man
ジェンダーとパワーの構造を皮肉る一曲。
“もし私が男だったら…”という語りは、フェミニズム的視点と同時に、
ミシェルなりのユーモアと怒りが込められている。サウンドはタイトでロック寄り。
Not Afraid
本作の中でも最もポジティブな光を放つ曲。
“もう怖くなんてない”と歌うその裏には、長い時間をかけて手に入れた強さがある。
リズムは跳ねていて、アルバムのトーンに一筋の光を差し込むような存在。
Fever Forever
タイトルにもなっている楽曲。
“この熱は永遠に続くの?”という問いが、愛と苦悩の二重性を示している。
メロディは非常にミニマルで、繰り返しの中で感情がにじみ出る構造。
Wherever We Are
場所ではなく、“一緒にいること”に意味があるというリリック。
親密さと儚さが同居する、二人だけの宇宙を描くような楽曲。サウンドはアンビエント寄り。
It’s My Life
他人に決められたくないという強い意思表明の曲。
“これは私の人生”という直球の言葉が、大人の自己決定感を象徴する。
サウンドはシンプルながら、リズムの強さが印象的。
Beating on the Outside
感情が抑えきれず、“外側で心が鳴っている”状態を描写。
心拍のようなビートと共に、傷つきながらも動き続ける心が浮かび上がる。
I’m Sorry
“ごめんね”と繰り返しながらも、何に謝っているのか曖昧なまま。
後悔と自己否定の迷宮を彷徨うようなバラード。
静けさが逆に感情を増幅させる構成となっている。
Shattered
最後を締めくくるにふさわしい、“割れた自分”を静かに抱きしめる楽曲。
壊れたままの美しさ、再生ではなく共存を受け入れるラスト。
本作のテーマ=“熱と崩壊”を最も端的に示した1曲。
総評
『The Trouble with Fever』は、ミシェル・ブランチが自身の過去・感情・弱さを否定せず、そのまま音楽に変換したアルバムである。
若い頃のように恋を美化することも、傷を隠すこともしない。
その代わりに、彼女はひとつひとつの感情をありのままに、
冷めきる寸前の“熱”としてすくい取り、そこに誠実な旋律を与えていく。
サウンドはシンプルかつローファイで、ドリーム・ポップやシューゲイズ的な質感も見られる。
しかし、その中には“音楽と生きるしかない”というミシェルの覚悟と再出発の意志が詰まっている。
恋に破れ、キャリアに迷い、世界と距離を置きながらも、
彼女は“音楽だけは手放さなかった”。その静かな叫びが、このアルバムには確かに宿っているのだ。
おすすめアルバム(5枚)
- Phoebe Bridgers『Punisher』
静かな悲しみと内省の音楽としての表現。 - Sharon Van Etten『Remind Me Tomorrow』
ローファイで重層的な女性ソングライティングとの共鳴。 - Mazzy Star『So Tonight That I Might See』
夢の中に沈むような音像と親密さが類似。 -
Cat Power『Sun』
自立と痛みを乗り越えるサウンドと歌詞の両面で共振。 -
Soccer Mommy『color theory』
感情のゆらぎとロック的ダークネスが近い。
6. 制作の裏側(Behind the Scenes)
本作は、2020年から2021年のパンデミックの最中、ナッシュビルの自宅スタジオで制作された。
使用機材はアナログに近いもので統一され、デモの段階から仕上げまで、ほぼミシェルとパトリックの2人で完結したDIYスタイルである。
本人は「このアルバムを作らずには、自分を保てなかった」と語っており、
まさに感情の避難場所としての音楽が、そのまま作品の姿になったとも言える。
離婚と育児、そしてアーティストとしての孤独を抱えるなかで生まれた本作は、
“完璧な完成度”ではなく、“むき出しの真実”を求めた作品なのだ。
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