
発売日: 2021年11月26日
ジャンル: ドリーム・ポップ、エレクトロ・ポップ、オルタナティブ・ポップ
概要
『Most Anything』は、Lilly Wood & The Prickが2021年にリリースした4作目のスタジオ・アルバムであり、“音と心の余白”に宿る感情を繊細に描き出した、彼らのキャリアの中でも最も静かで深い作品である。
前作『Shadows』(2015)から6年の沈黙を経て届けられたこのアルバムには、パンデミック以後の世界の空気、そしてそれ以前から漂っていた“不安定な希望”が詩的に刻まれている。
音楽的には、アコースティックの温もりを持つインディー・ポップの原点回帰と、シンセ主体のミニマルなアレンジが絶妙に交差。
全体的にテンポは抑えめで、静寂と間合いの美学が光り、ドリーム・ポップやアンビエント・フォークにも接近している。
タイトルの“Most Anything”は、直訳すれば「ほとんど何でも」だが、本作ではむしろ「明確なものを避けてでも“感情の断片”をすくいたい」という繊細な姿勢が込められており、“曖昧さの力”に満ちたアルバムといえる。
全曲レビュー
1. You Want My Money
『Shadows』からのリバイバル曲であり、アルバムの空気感を象徴するような選曲。
物質的な欲望と感情の不在をテーマにしたビターなポップ。
ドリーミーな再ミックスにより、原曲よりもいっそう浮遊感が増している。
2. A Song
タイトル通り、“たった一つの歌”という最小単位のメタファーを用いたミニマルなバラード。
アコースティック・ギターのアルペジオとナビ・ヌールの柔らかなヴォーカルだけで構成され、親密な空間が広がる。
3. In Love for the Last Time
繊細なビートとシンセパッドがゆっくりと折り重なるラブソング。
“これが最後の恋かもしれない”という諦念と希望が交差する感情の綾が美しい。
4. Last Time
上記と同じ“Last Time”のテーマを別角度から描いた姉妹曲のような構成。
こちらはよりアップテンポで、ビートが感情を駆り立てるダンスポップ調。
夜のドライブ感覚を帯びており、光の見えない旅路に寄り添う。
5. A Song (Reprise)
2曲目のリプライズであり、電子音と残響をまとったアンビエント的再構築。
記憶と夢が交差するような音像が、アルバム中盤に“思考の余白”を挿入する。
6. Feeling of Life
最もキャッチーで希望に満ちたトラック。
「生きているという感覚」そのものをテーマにしながら、どこか刹那的な煌めきをたたえる。
サビのコーラスワークが幻想的で、ライブ映えするハイライト。
7. Lonely Life
淡いギターのリフと四つ打ちのリズムで構成された、“都市の孤独”を描く現代的なブルース。
ナビの呟きのような歌声が、他人とすれ違う日常にそっと寄り添う。
8. 7 Minutes
“あと7分しかない”という切迫感と時間の感覚をテーマにした実験的なミニマル・エレクトロ。
一つのリフが7分間繰り返される構成で、時間感覚が麻痺していく不思議な体験が味わえる。
9. Lost in the Moment
“今、この瞬間に沈み込んでしまいたい”という感覚を、スロウコアに近いテンポで描写。
全編を通してほとんどコード進行が変わらず、静けさが逆に感情を膨らませていく。
10. All I Need Is Time
“必要なのは時間だけ”という祈るような一節が印象的なクロージング・ナンバー。
余白だらけのサウンドと長いリバーブが、聴き終えたあともしばらく耳に残り続ける。
終わりではなく、“続きのための余白”としての終曲。
総評
『Most Anything』は、Lilly Wood & The Prickが“何者でもあろうとせず、ただ感情に静かに耳を澄ませる”ことに徹した作品である。
ここには、『Invincible Friends』の頃にあったアコースティックな素朴さと、『Shadows』で得たシンセ主体の緻密さが、対立するのではなく補い合う形で共存している。
音楽は極力削ぎ落とされ、時に1つのコード、1つの言葉にすべてを託すような構成が続く。
その結果、リスナーに求められるのは“意味を追うこと”ではなく、“感情とともに漂うこと”。
つまりこのアルバムは、聴き流すための音楽ではなく、“沈黙とともに聴く音楽”なのである。
また、パンデミックの余韻が残る2021年という時期に発表された点も、作品の内向的で瞑想的なトーンに大きく影響している。
『Most Anything』は、傷ついた世界の片隅で静かに灯された“優しさの音楽”であり、再起動でも救済でもなく、“ただそこにある”という在り方を選んだ、非常に現代的なアルバムである。
おすすめアルバム(5枚)
- Sufjan Stevens『Carrie & Lowell』
極限まで削ぎ落とされた音と私的なリリックの結晶。『A Song』と同質の親密さを持つ。 - Daughter『Not to Disappear』
孤独と記憶を描く女性ボーカルの名盤。『Lonely Life』や『Lost in the Moment』と響き合う。 - FKA twigs『Magdalene』
静けさと電子音の融合による“感情の断片表現”が共鳴する。 - Agnes Obel『Myopia』
深いリバーブとクラシカルな構成による静的美学が、『Most Anything』と通じ合う。 - Cigarettes After Sex『Cry』
夢の中のようなテンポ感と、繊細なメロディ。全編を通して漂う空気感が非常に近い。
歌詞の深読みと文化的背景
『Most Anything』のリリックには、2020年代初頭の“意味が氾濫する世界”に抗うかのように、曖昧さと空白が意図的に残されている。
「A Song」や「All I Need Is Time」のように、短い語句に強い感情を閉じ込めることで、“語らないこと”の力を信じる詩世界が構築されており、それはSNS的過剰さへの対抗とも読める。
また、「Feeling of Life」や「In Love for the Last Time」では、“いま”という一瞬の感覚を大切にするリリシズムが貫かれ、これまでの彼らにあった社会批評的なニュアンスはやや後景に退き、その分、より内的・感覚的な物語へと傾いている。
『Most Anything』は、「ほとんど何でもない」ことのなかに「すべて」が宿ることを、静かに教えてくれるアルバムである。
それは、情報の喧騒に疲れたすべての人の心に、ひとときの“感情の避難所”を提供する作品なのだ。
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