Martha by Tom Waits(1973)楽曲解説

 

1. 歌詞の概要

『Martha』は、Tom Waitsが1973年に発表したデビュー・アルバム『Closing Time』に収録されたバラードであり、彼の初期作品の中でもとりわけ叙情的で、静謐な美しさをたたえた楽曲である。この曲は、長い年月を経てなお忘れられない恋人への想いを語る、ある老年の男性のモノローグとして構成されている。

語り手は、かつて愛した女性“Martha”に何十年ぶりかに電話をかけ、「元気にしているか」「人生はどうだったか」と、過去をなぞるように静かに語りかける。そこには未練や後悔、そして現在の孤独が滲みつつも、憎しみや恨みではなく、むしろ温かな愛情と優しい回想が広がっていく。Tom Waits特有の詩的な描写と、かすれたピアノの旋律が深く結びつき、聴く者の記憶や感情の奥底をそっと揺らすような力を持っている。

「時間」という概念が本作の根底にあり、歳月の流れがもたらす記憶の変容、そして失われた愛の残響が丁寧に描かれている。語り手は過去に戻ろうとはしない。ただ、かつての“愛のかたち”を確かめるためだけに、静かに言葉を紡いでいく。

2. 歌詞のバックグラウンド

Tom Waitsが『Martha』を作曲したのはまだ20代前半の頃であり、驚くほど老成した視点から“老年の恋愛回顧”を描いたことは、多くの批評家を驚かせた。Waitsは本作について、「自分が老いた時、過去を振り返ってどんな風に感じるだろうか?」という想像のもとに書いたと語っており、若者の想像力と成熟した感性が交錯した作品として、異彩を放っている。

ピアノを中心としたアレンジは、シンプルながらも豊かな情緒を生み出しており、後のWaitsが展開するジャズやブルース、実験音楽的な要素はまだ影を潜めているが、その詩情の鋭さとナラティヴな構成はすでに完成されている。本作は彼のキャリア初期における“語りの音楽”というスタイルの原点でもあり、ボブ・ディランやランディ・ニューマンの系譜を継ぐ“アメリカン・ソングライター”としての姿を強く印象づけた。

3. 歌詞の抜粋と和訳

Operator, number please, it’s been so many years
電話交換手さん、番号を頼むよ、もう何年も経ってしまった

Will she remember my old voice
僕の昔の声を、彼女は覚えてくれてるだろうか

While I fight the tears
涙をこらえながら、そう考えてるんだ

この冒頭の数行だけで、語り手の心情と時間の隔たり、そして想いの深さが鮮やかに表現されている。声を通して繋がる記憶、それが本作の中心にある。

And though I know I’m not the same
僕はもう昔の僕じゃないけれど

And I never said I loved you
結局、君に“愛してる”って言えなかったんだ

And I still have your number
それでも君の番号は、今でも持っている

この一節では、愛の不完全性と、言えなかった言葉の重み、そしてそれでも失われない思いが切実に語られる。

Martha, all I had was you and all you had was me
マーサ、僕にあったのは君だけ、君にも僕だけだった

There was no tomorrows
僕らに“明日”なんてなかった

We’d packed away our sorrows
悲しみさえ、どこかにしまいこんでいたよね

ここで回想されるのは、無垢で誠実だった愛の記憶。その時間がいかに短くても、語り手にとっては人生のすべてだったことが分かる。

引用元:Genius – Tom Waits “Martha” Lyrics

4. 歌詞の考察

『Martha』の核心には、「過去と向き合うことの静けさ」と「老いと記憶の重なり」がある。語り手は過去に未練を残しているが、それを取り戻そうとしているのではない。むしろ、ただ“誰かに聞いてほしい記憶”を穏やかに語っているように見える。それは自分の人生を振り返る最後の整理でもあり、誰しもがいつか向き合う“物語の終章”ともいえる。

また、この曲には“時間の残酷さ”が裏テーマとして存在している。かつての恋人は、もう自分の知らない人生を歩んでおり、互いの時間は決して交差しない。それでも語り手は、ほんの数分間だけ、記憶の中の“ふたり”を再生する。そしてその儚い時間の中に、かつての若さと真実の愛が息づいている。

特筆すべきは、曲全体が「現在」の電話という設定の中で、すべてが過去形で語られている点である。つまりこの曲には“現在の関係性の構築”は一切存在しない。あるのはただ、遠く過ぎ去った愛への手紙のような、かすかに震える独白のみである。

5. この曲が好きな人におすすめの曲

  • Famous Blue Raincoat by Leonard Cohen
    過去の三角関係を手紙形式で描いた、静謐で重厚なナラティヴ・バラード。
  • Old Man by Neil Young
    老いと記憶、自分と過去の世代を重ねる視点が深く共鳴する名曲。
  • Hearts and Bones by Paul Simon
    壊れた愛と、それでも残る“記憶の風景”を描いた感傷的なポップソング。
  • The Pretender by Jackson Browne
    人生の妥協と希望の間で揺れる感情を、静かに語りかけるアメリカン・ソング。

6. “記憶の中の愛”としてのマーサ

『Martha』という曲は、“彼女に語りかけている”ようでいて、実際には“自分自身に語っている”のかもしれない。誰にでもある、言えなかった言葉、戻らない時間、手放せない記憶――それらがこの曲のピアノの旋律とともに、ゆっくりと解けていく。

Tom Waitsは、派手な演出も、大げさな感情の爆発も使わずに、ただ静かに語る。その語りの中に、人生の痛みと美しさ、老いと若さ、愛と後悔が凝縮されている。『Martha』は、失ったものを嘆くのではなく、“そこに確かにあった愛”を肯定する、極めて優しく、深い楽曲である。


歌詞引用元:Genius – Tom Waits “Martha” Lyrics

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