発売日: 2003年9月
ジャンル: MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)、サンバ、ボサノヴァ、ジャズ
概要
『Maria Rita』は、ブラジル音楽界のサラブレッド、マリア・ヒタによるデビュー・アルバムであり、彼女がエリス・レジーナ(ブラジルの伝説的歌手)の娘であるという血筋以上に、“声という楽器”を持つ表現者としての真価を世界に知らしめた記念碑的作品である。
2003年にリリースされた本作は、ブラジル国内外で瞬く間に注目を集め、ラテン・グラミー賞新人賞を含む複数の栄冠を獲得。MPBの王道を現代的な感性で再解釈し、伝統とモダニティの橋渡し役としての彼女の役割を明確に提示した。
本作の選曲には、イヴァン・リンス、ジョアン・ボスコ、モアシール・ルス、アントニオ・ピトンらブラジルの大御所作家が名を連ね、マリアのヴォーカルはジャズ的スキャットの柔軟さと、サンバの土着的リズム感を併せ持って歌を“身体的な響き”へと昇華させている。
スタジオでの演奏も極めて洗練されており、アコースティックな編成を基本に、ブラジリアン・ジャズ・フィーリングとクラシックなサンバの熱気が同居するサウンド・スケープが、彼女の声と見事に調和している。
全曲レビュー
1. A Festa(作詞作曲:Milton Nascimento)
喜びと熱狂をテーマにした華やかなオープニング。
サンバのリズムに乗せて、マリアの軽やかなスキャットが舞い、まさに“祝祭”の到来を感じさせる。
2. Agora só falta você(作詞作曲:Rita Lee)
母エリスもかつて歌った名曲のカバー。
ジャズ・ファンク風のグルーヴを基盤に、マリアはあくまで自然体で軽快に歌い上げ、親への敬意と自身の独自性を両立してみせる。
3. Menininha do portão
アコースティック・ギターとパーカッションによるシンプルな構成の中で、子ども時代の情景が淡く描かれる。
語りかけるような歌唱が非常に印象的で、リスナーとの距離がぐっと縮まる楽曲。
4. Não Deixe o Samba Morrer
サンバの誇りと存続を願うスロー・サンバ。
“サンバを死なせてはならない”というメッセージを、若い声で継承する姿勢が胸を打つ。
5. Cara Valente(作詞作曲:Marcelo Camelo)
リード・シングルとして最も注目を浴びた楽曲。
跳ねるようなメロディと語尾の抜き方にジャズの余裕があり、彼女の音楽性の幅広さを証明する。
6. Dos Gardenias
キューバの名曲をポルトガル語でカバー。
ボレロのメランコリーとブラジル的抑揚が混ざり合い、独自の異国情緒を醸し出す。
7. Pagu
ブラジルのフェミニズム運動の象徴的人物、パグ(Pagu)に捧げられた曲。
ダンサブルで強いビートを持ちつつ、マリアの声が語りと歌の中間で揺らぐスタイルが刺激的。
8. Santa Chuva(作詞作曲:Marcelo Camelo)
ジャズとボサノヴァの中間にあるような、柔らかく浮遊感のあるバラード。
雨音のように優しく、心のざわめきを沈めていく一曲。
9. Encontros e Despedidas(作詞作曲:Milton Nascimento)
出会いと別れをテーマにしたクラシックなMPB。
リズムが揺れる中での情感のコントロールは見事で、母エリスの解釈とは異なる、“旅の途中の声”を響かせる。
10. Cupido
軽やかなサンバ・ファンク。
遊び心に満ちたメロディラインと、ちょっとした茶目っ気が声に滲む、心地よいブレイクタイム的楽曲。
11. Veja Bem Meu Bem
切なさと祈りが入り混じったスロー・ナンバー。
声の中に“どうにもならなさ”が漂い、MPBの哀愁が濃密に描かれる。
12. Lavadeira do Rio
川の洗濯女というタイトルの通り、民話的、日常的なモチーフを歌に昇華したトラック。
リズムの流れと声の揺らぎが水そのもののように感じられる。
総評
『Maria Rita』は、デビュー・アルバムでありながら驚異的な完成度を持ち、マリア・ヒタというアーティストが“誰かの娘”ではなく、独立した声と存在としてブラジル音楽界に登場した瞬間を記録する記念碑的作品である。
このアルバムの真の価値は、技巧や選曲の良さ以上に、“声を通じて文化が継承されるという瞬間”にある。
MPBという伝統音楽ジャンルの中で、彼女はジャズ的感性、即興性、そして演劇的な情感を交えながら、古典を現代の身体に宿らせた。
母エリス・レジーナの影は当然色濃いが、それに屈せず、むしろ**“生まれながらにしてMPBである”という強さ**がマリアにはある。
アルバム全体は穏やかで流れるように聴けるが、その奥にはブラジルの歴史、都市の喧騒、愛の苦み、希望の断片がすべて詰まっている。
『Maria Rita』は、“美しい歌声のアルバム”ではなく、**“ブラジルという言語で語られる心の地図”**として、今もなお多くのリスナーの胸を震わせ続けている。
おすすめアルバム(5枚)
- Elis Regina『Elis & Tom』
母エリスの最高傑作のひとつ。トム・ジョビンとの共演作で、MPBの金字塔。 - Marisa Monte『Verde Anil Amarelo Cor-de-Rosa e Carvão』
マリアと並び称される現代MPBの女王。音楽性の広さと繊細さで共鳴。 - Gal Costa『Cantar』
トロピカリア後のMPBの深化を代表する作品。マリアのルーツとも重なる。 - Roberta Sá『Braseiro』
より若い世代によるMPB継承。サンバのグルーヴと都会的な感性が共通。 -
Céu『Céu』
エレクトロとボサノヴァの融合を試みた革新的MPB作品。現代の声としてマリアと対をなす存在。
歌詞の深読みと文化的背景
本作の歌詞群には、サンバやMPBが本来的に持つ社会的・文化的文脈が息づいている。
「Não Deixe o Samba Morrer」では、サンバの衰退を嘆く声が現代の若い女性の声で語られることで、文化の継承と変化という対立的テーマが浮かび上がる。
「Pagu」では、フェミニズム的立脚点がマリアの強い口調で語られ、“女性が語る歌”としてのMPBの現在地を提示している。
また、「Encontros e Despedidas」は、ブラジルという“旅する国”における出会いと別れ、都市と内陸、希望と喪失といった対概念を繊細に描き、マリアの“声のドキュメント”としての力を見せつけている。
『Maria Rita』は、単なる名家のデビュー作ではなく、21世紀のブラジル音楽がどこへ向かうかを示した起点なのである。
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