発売日: 1985年9月30日
ジャンル: シンセ・ポップ、ニューウェイブ、ブルー・アイド・ソウル、ソフィスティ・ポップ
概要
『Mad Not Mad』は、Madnessが1985年に発表した6作目のスタジオ・アルバムであり、
**彼らのキャリアにおける最も内省的で、最も議論を呼んだ“成熟と孤独の実験作”**である。
この時期、バンドはメンバーの離脱(キーボーディストMike Barsonの脱退)を経ており、
グループとしての一体感はやや揺らいでいた。
その代わりに本作では、シンセサイザーと打ち込みを多用した冷ややかで洗練された音像が前面に出され、
Madnessのスカ/コミック・バンドというイメージから一線を画す作風へとシフトしている。
歌詞の内容も、家庭崩壊・都市の荒廃・個人の孤独など、社会的で重いテーマが多く取り上げられ、ポップさの裏に深い陰りが見える。
そのため本作は、当時こそ賛否両論を巻き起こしたが、
現在では「英国ポップ史におけるソフィスティケーションの極み」として再評価が進んでいる。
全曲レビュー
1. I’ll Compete
本作の幕開けを飾る、重厚なビートと洗練されたホーンが特徴のミドルテンポ・ナンバー。
“社会や他人と競争しなければならない”という現代的な強迫観念をテーマに、
Suggsは淡々と、しかし諦念をにじませながら歌う。
音のスカスカさとメッセージの重さが対照的で、アルバム全体のトーンを決定づける一曲。
2. Yesterday’s Men
本作のハイライトであり、Madness史上最もメランコリックなナンバーのひとつ。
「昨日の男たち」というタイトルが示すように、過去に取り残された者たちの哀愁と静かな尊厳を描く。
しっとりとしたベース、控えめなストリングス、どこかソウルフルなメロディが、時代の終わりと記憶の儚さを美しく包み込む。
UKチャートでは18位のスマッシュヒット。
3. Uncle Sam
軍隊と国家主義を風刺した、一見明るいが毒気に満ちたポリティカル・ポップ。
コーラスのキャッチーさとMVのシュールさが話題を呼んだが、
その内実は、**英国的な風刺と冷笑が混じった“戦争の記憶の再解釈”**である。
スカ的ビートを下敷きにしながらも、構成はニューウェイブ的な緻密さを持つ。
4. White Heat
アーバンでスリリングなビートに乗せて、都会的な焦燥感と欲望の加熱状態を描いたナンバー。
タイトルは映画『非情の街(White Heat)』からの引用とされ、
暴力的で抑圧された感情を音楽で“冷たく表現する”手法が印象的。
ギターリフやパーカッションが非常にモダン。
5. Mad Not Mad
アルバムのタイトル曲にして、“正気か狂気か”という二項対立を問い直す実存的バラード。
穏やかなテンポとシンセのパッド、反復される「I’m mad, not mad…」というフレーズが、
自己否定と自己肯定の狭間で揺れる内面世界を丁寧に描き出している。
これまでのMadnessにはなかった哲学的な深みがある。
6. Sweetest Girl
Scritti Polittiのカバー。
オリジナルのポストモダンな知性とポップさを残しつつ、Madness流のソウルフルな解釈に置き換えた異色作。
キーボードの美しさとリズムのグルーヴが絶妙で、アルバムの中で最も洗練された一曲といえる。
カバーでありながら、彼らの“音楽的読解力”が存分に発揮された好例。
7. Burning the Boats
弦楽器と打ち込みドラムが交錯する不穏なサウンドスケープに、撤退不能な覚悟や絶望的状況の中での前進がテーマとして織り込まれる。
タイトルは“退路を断つ”という軍事的メタファー。
混沌と秩序のせめぎ合いが、音と構成に如実に現れている。
8. Tears You Can’t Hide
ブルー・アイド・ソウル風味のバラードで、“隠しきれない涙”を優しく抱きしめるような温もりのある楽曲。
それまでの冷たいトーンから一転、心の深層にある人間らしさを描き出す、非常にパーソナルで感情的な一曲。
Suggsのボーカルも穏やかに熱を帯びている。
9. Time
メロディックかつダンサブルな中に、“時間の不可逆性”という切ないテーマが浮かび上がる。
軽やかに聞こえるが、「過去には戻れない」というメッセージは、
バンドの変遷や時代の変化を反映しているかのように響く。
全体の中ではアクセント的なポジションを担う。
10. Coldest Day
タイトル通り、感情の凍結と孤独を描いたクールなバラード。
冬の街角を思わせるアレンジと低温な音像が、都市における人間疎外と心の閉塞を強く印象づける。
アルバムのエンディングにふさわしい、静かな幕引き。
総評
『Mad Not Mad』は、Madnessの音楽的深化と精神的複雑化が最も色濃く表れたアルバムであり、
“誰も踊らせようとしないMadness”という逆説的な挑戦を描いた、1980年代英国ポップの異色の傑作である。
スカは影を潜め、代わりに冷たいシンセと孤独なリズムが広がる。
だがその静けさの中には、熱と叫びを内側に秘めた強烈な感情の揺れが息づいている。
本作を最後にバンドはいったん解散(のち再結成)。
『Mad Not Mad』は、**変化と喪失、成熟と苦悩のすべてを封じ込めた“終わりの音楽”**であり、
それゆえに今なお聴く者の胸に深く残る。
おすすめアルバム(5枚)
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Talk Talk – The Colour of Spring (1986)
ポップの内省化と音響の深化。『Mad Not Mad』の静かな同志。 -
Scritti Politti – Cupid & Psyche 85 (1985)
ソウルと知性が交差する洗練ポップ。共通の美学あり。 -
Japan – Tin Drum (1981)
東洋趣味とエレクトロニックの融合。芸術性と孤独感が共鳴。 -
The Blue Nile – Hats (1989)
都市の孤独と静かな詩情。夜に聴きたい『Mad Not Mad』の兄弟作。 -
Prefab Sprout – From Langley Park to Memphis (1988)
知的ポップと感情表現の極致。80sポップの文芸的進化形。
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