
発売日:2021年
ジャンル:ネオ・ソウル、R&B、ポップ・ソウル、ジャズ・ポップ、ギター・ポップ
概要
Maya DelilahのEP『It’s Not Me, It’s You』は、ロンドンを拠点とするシンガー・ソングライター/ギタリストである彼女の魅力を、コンパクトながら明確に示した初期重要作である。Maya Delilahは、ブルース、ソウル、R&B、ジャズ、ポップを横断するギター・プレイと、柔らかく親密なヴォーカルを持ち味とするアーティストであり、2020年代の英国ネオ・ソウル/インディーR&Bの文脈で注目を集めた。
本作のタイトル『It’s Not Me, It’s You』は、別れの決まり文句である「It’s not you, it’s me」を反転させたものだ。一般的な表現では「悪いのはあなたではなく自分だ」という自己責任の形を取るが、ここでは「悪いのは自分ではなく、あなた」というニュアンスが生まれる。この反転には、失恋や関係の破綻をただ受け身で悲しむのではなく、自分の視点から関係を見直し、相手の問題を指摘する主体性が込められている。
音楽的には、Maya Delilahの最大の特徴であるギターが中心にある。彼女のギターは、ロック的な派手なリフで押すものではなく、ブルースやソウル、ジャズの語法を踏まえた繊細なフレージングを持つ。クリーンなトーン、軽いカッティング、メロディアスなオブリガート、時にブルージーなベンドが、楽曲の感情を丁寧に支えている。ギターが単なる伴奏ではなく、ヴォーカルと対話するもう一つの声として機能している点が本作の重要な魅力である。
また、本作はR&B作品でありながら、過度に重いビートや濃密なプロダクションに依存しない。全体に軽やかで、余白が多く、歌とギターのニュアンスが前面に出ている。そのため、ネオ・ソウルやジャズ・ポップの洗練を持ちながら、ベッドルーム・ポップ的な親密さも感じられる。大きなドラマを演出するよりも、恋愛のすれ違い、違和感、諦め、皮肉、未練を日常的な言葉と温かなサウンドで描く作品である。
2020年代の英国R&Bシーンでは、Jorja Smith、Mahalia、Tom Misch、Lianne La Havas、Pip Millett、Arlo Parksなど、ソウルやジャズの伝統を現代的なポップ感覚に落とし込むアーティストが存在感を高めていた。Maya Delilahもその流れに位置づけられるが、彼女の場合はギター・プレイヤーとしての個性が特に強い。歌い手としてだけでなく、演奏家として自らのサウンドを形作る点が、本作を単なるR&B EP以上のものにしている。
『It’s Not Me, It’s You』は、恋愛をテーマにしたEPでありながら、単純なラヴ・ソング集ではない。ここで描かれるのは、理想化された恋ではなく、期待外れ、すれ違い、相手への苛立ち、自分を守るための距離、そしてそれでも残る柔らかな感情である。タイトルの反転が示すように、Maya Delilahは失恋の中で自分を責め続けるのではなく、関係を冷静に見つめ直す。その視点が、EP全体に軽やかな強さを与えている。
全曲レビュー
1. Need A Word With Cupid
「Need A Word With Cupid」は、本作のテーマを象徴する楽曲である。タイトルは「キューピッドに一言言いたい」という意味であり、恋愛がうまくいかない理由を、神話的な恋の仲介者であるキューピッドに問いただすようなユーモアを含んでいる。失恋や関係の不調を深刻に沈み込ませるのではなく、少し皮肉を交えて語る姿勢がMaya Delilahらしい。
音楽的には、軽やかなR&Bグルーヴとソウルフルなギターが中心となる。ギターは歌の隙間に短いフレーズを差し込み、ヴォーカルと自然に会話する。彼女の演奏は、技巧を誇示するためのものではなく、歌詞のニュアンスを補うために配置されている。恋愛への不満を歌いながらも、サウンドは重くなりすぎず、むしろ洒脱で親しみやすい。
歌詞では、恋の失敗に対する戸惑いが描かれる。なぜ相手とうまくいかないのか、なぜ期待したような関係にならないのか。その苛立ちは直接的な怒りではなく、キューピッドに文句を言うというユーモラスな形で表現される。この軽い比喩によって、曲は失恋の歌でありながら、聴き手に重苦しさを与えない。
この曲は、EP全体の入り口として非常に効果的である。恋愛の失敗を扱いながら、自己憐憫に閉じこもらず、軽やかで知的な距離を保つ。Maya Delilahのソングライティングの特徴である、親密さとユーモア、ソウルフルな演奏とポップな聴きやすさがよく表れている。
2. Gato
「Gato」は、タイトルにスペイン語で「猫」を意味する言葉を用いた楽曲であり、EPの中でも遊び心と洒脱さが際立つ。猫というモチーフは、自由さ、気まぐれさ、距離感、独立心を連想させる。恋愛関係においても、相手に完全には従わず、自分のペースを保つ存在として読める。
音楽的には、ギターの軽快なフレーズが印象的である。ソウルやファンクのカッティングを思わせるリズム感がありながら、全体は柔らかく、過度に踊らせる方向には行かない。リズムはしなやかで、ベースとドラムは控えめにグルーヴを支え、ヴォーカルの余裕ある表情を引き立てる。
歌詞のテーマは、恋愛における駆け引きや距離の取り方と結びついているように響く。相手に依存しすぎず、自分の感情を守りながら関係を眺める視点がある。タイトルの「Gato」が持つ気まぐれなイメージは、この態度とよく合っている。
Maya Delilahの歌唱は、力強く押し出すよりも、柔らかく言葉を置いていくタイプである。この曲でも、声はギターやリズムと一体化し、肩の力を抜いたグルーヴを作る。恋愛の不安定さを描きながら、音楽には余裕があり、都会的な洗練がある。
3. Tangerine Dream
「Tangerine Dream」は、タイトルからして色彩感と夢見心地の雰囲気を持つ楽曲である。「タンジェリン」は鮮やかなオレンジ色を連想させ、「Dream」は幻想や記憶を示す。曲全体にも、甘さ、淡い郷愁、少し非現実的な感覚が漂っている。
サウンドは、ネオ・ソウルとジャズ・ポップの中間に位置する。ギターは柔らかく、コードの響きには温かさがある。Maya Delilahのヴォーカルは、夢の中で語るように穏やかで、言葉の輪郭をはっきりさせすぎない。そのため、曲は現実の恋愛を歌いながらも、記憶や想像の中に浮かぶ情景のように聴こえる。
歌詞の面では、理想化された相手や、かつての甘い時間への視線が感じられる。ただし、完全な幸福の歌ではなく、夢のような感覚の中に、どこか手の届かなさや儚さがある。タイトルの「Dream」は、現実から離れた美しい場所であると同時に、目覚めれば消えてしまうものでもある。
この曲は、EPの中で感情の柔らかい側面を担っている。タイトル曲的な皮肉や、別れにまつわる冷静な視線とは異なり、ここでは恋愛の甘さや記憶の美しさが中心になる。ただし、その甘さは過剰ではなく、洗練されたギター・ポップ/R&Bとして整理されている。
4. Breakup Season
「Breakup Season」は、EPのテーマを最も直接的に表す楽曲のひとつである。タイトルは「別れの季節」を意味し、恋愛が終わりやすい時期、あるいは自分の周囲で関係が次々と壊れていくような感覚をユーモラスに表現している。失恋を個人的な悲劇としてだけでなく、季節のように繰り返される現象として扱う点が興味深い。
音楽的には、明るさと切なさが共存している。リズムは軽快で、ギターのフレーズも爽やかだが、歌詞の内容は関係の終わりを扱っている。この対比が曲の魅力である。悲しいテーマを、重苦しいバラードではなく、軽やかなポップ・ソウルとして描くことで、Maya Delilahは失恋に対して距離を取る。
歌詞では、別れが一つのパターンとして捉えられる。恋愛が始まり、期待し、すれ違い、終わる。その循環を「季節」と呼ぶことで、個人的な痛みが少し客観化される。これはタイトル『It’s Not Me, It’s You』の態度とも通じる。自分だけが悪いのではなく、関係には構造や相手の問題もある。その冷静な視点が、曲に強さを与えている。
この曲は、EP全体の中でも特にポップなフックを持ち、聴きやすい。だが、その軽さの裏には、繰り返される失恋への疲れや、恋愛に対する少し皮肉な感情がある。Maya Delilahのソングライティングは、こうした複数の感情を同時に成立させる点に特徴がある。
5. Easy
「Easy」は、関係性における気楽さ、あるいはその反対にある不自然さを扱った楽曲として聴くことができる。タイトルの「Easy」は、一見すると穏やかで肯定的な言葉だが、恋愛において「簡単であること」は必ずしも単純ではない。無理をしなくていい関係への憧れ、あるいは本当は簡単であるはずなのに難しくなってしまう関係への違和感が、この曲の背景にある。
サウンドは落ち着いており、ギターの温かいトーンと控えめなリズムが中心となる。Maya Delilahの声は、近い距離で語りかけるように響き、曲全体に親密な空気を与える。派手な展開は少なく、タイトル通り、自然な流れを重視した楽曲である。
歌詞のテーマは、恋愛における無理のなさと、そこに潜む不安である。うまくいく関係は本来、もっと自然で、もっと簡単であるはずだという感覚がある。しかし実際には、相手の言動や自分の迷いによって、その「easy」さが失われていく。曲はその微妙な違和感を、柔らかいメロディの中に包み込む。
この曲で特に重要なのは、Maya Delilahのギターとヴォーカルの距離感である。ギターは歌に寄り添い、時に返事をするように短いフレーズを挟む。まるで心の中のもう一つの声のように機能し、歌詞では言い切れない感情を補っている。
6. Moonflower
「Moonflower」は、EPの中でも特に叙情的で、夜の空気を感じさせる楽曲である。月下で咲く花というタイトルは、静けさ、内省、孤独、淡い美しさを象徴している。昼の明るい感情ではなく、夜にだけ開く心の一部を描くような曲である。
音楽的には、柔らかなギターと穏やかなコード感が中心で、ジャズやソウルの影響が比較的強く感じられる。テンポは落ち着いており、ヴォーカルは非常に親密である。Maya Delilahの歌声は、感情を大きく表に出すのではなく、静かに滲ませる。これにより、曲は内省的で繊細なムードを持つ。
歌詞では、夜にだけ見える感情、あるいは普段は隠している脆さが描かれているように響く。月の光は太陽のように強く照らすのではなく、物事の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。この曲のサウンドも同様に、感情を直接的に暴露するのではなく、淡い光の中で見せる。
「Moonflower」は、EPの終盤に静かな深みを与える曲である。恋愛の皮肉や軽やかなグルーヴが目立つ本作の中で、この曲はより内面へ沈む。Maya Delilahのソングライターとしての繊細さ、そしてギタリストとしての音色へのこだわりが強く表れた楽曲である。
総評
『It’s Not Me, It’s You』は、Maya Delilahの魅力を非常に明確に示したEPである。ネオ・ソウル、R&B、ジャズ・ポップ、ギター・ポップを柔らかく結びつけ、恋愛の終わりやすれ違いを、過度な悲劇性ではなく、軽やかな皮肉と親密な演奏で描いている。タイトルの反転が象徴するように、本作は失恋をただ自分の失敗として抱え込む作品ではない。関係の中にある相手の未熟さ、不誠実さ、相性の悪さを見つめ、自分の感情を取り戻していく作品である。
音楽的には、Maya Delilahのギターが最大の個性である。彼女のギターは、R&Bの伴奏として背景に退くのではなく、楽曲の感情を語る重要な声として機能する。ブルース的なニュアンス、ジャズ的なコード感、ソウルの温かさ、ポップな明快さが自然に混ざり合い、ヴォーカルと対話する。そのため、本作はシンガー・ソングライター作品であると同時に、ギタリストの作品としても聴くことができる。
ヴォーカル面では、過度に技巧を見せるよりも、言葉のニュアンスを大切にしている。Maya Delilahの歌は、強烈な声量で圧倒するものではなく、近い距離で話しかけるような親密さを持つ。恋愛の違和感や小さな苛立ち、未練や諦めを、日常的な語り口で表現する。その自然さが、同世代のリスナーに届きやすい要素となっている。
本作の歌詞は、恋愛の終わりを扱いながらも、重く沈み込まない。むしろ、「Need A Word With Cupid」や「Breakup Season」に見られるように、ユーモアや皮肉を通して痛みを相対化する。これは、現代のR&Bやインディー・ポップに見られる重要な感覚である。失恋を大げさなドラマとしてではなく、日常の中で繰り返される感情の整理として描く。その視点が、本作を親しみやすくしている。
また、EP全体のサウンドは非常に整っている。リズムは控えめながらグルーヴがあり、ギターは主張しすぎずに曲の中心を支え、プロダクションは余白を残している。音を詰め込みすぎないことで、Maya Delilahの声とギターのニュアンスがよく伝わる。これは、ネオ・ソウルやジャズ・ポップの洗練と、ベッドルーム・ポップ的な親密さの中間にある音作りといえる。
日本のリスナーにとって『It’s Not Me, It’s You』は、Tom MischやLianne La Havas、Mahalia、Jorja Smith、Pip Millett、Arlo Parks、Raveena、UMIなどの流れに関心がある場合、非常に聴きやすい作品である。特に、ギターを中心にしたR&Bや、甘すぎないソウル・ポップ、都会的で軽やかな失恋ソングを好むリスナーに適している。
一方で、本作は派手なポップ・アンセムや強烈な実験性を求める作品ではない。あくまで、短いEPの中で、Maya Delilahのソングライティング、ギター、声、恋愛への視点を丁寧に提示する作品である。その控えめなスケールこそが魅力であり、聴き込むほどに細かなギターの表情や歌詞のニュアンスが浮かび上がってくる。
総じて『It’s Not Me, It’s You』は、Maya Delilahの初期の才能を明確に刻んだ、洗練されたネオ・ソウル/R&B EPである。恋愛の終わりを描きながら、悲しみだけでなく、皮肉、余裕、自立、柔らかなユーモアを含んでいる。ギターと声が近い距離で響く本作は、現代英国R&Bの中でも、演奏家としての個性を持つアーティストの魅力を伝える重要な作品といえる。
おすすめアルバム
1. Maya Delilah『The Long Way Round』(2025年)
Maya Delilahのソングライティングとギター表現がより成熟した作品。『It’s Not Me, It’s You』で示されたネオ・ソウル、R&B、ギター・ポップの方向性が、より広いスケールで展開されている。初期EPからの成長を確認するうえで重要である。
2. Lianne La Havas『Lianne La Havas』(2020年)
ギターを中心にした現代ソウルの名作。繊細なコード感、親密なヴォーカル、恋愛と自己認識をめぐる歌詞において、Maya Delilahと深く通じる。R&Bとシンガー・ソングライター的な表現の接点を理解するうえで関連性が高い。
3. Tom Misch『Geography』(2018年)
ギター、ジャズ、ソウル、ポップを軽やかに結びつけた作品。Maya Delilahのギター・プレイや都会的なグルーヴ感と共通する要素が多い。英国ネオ・ソウル/ジャズ・ポップの文脈を知るうえで重要である。
4. Mahalia『Love and Compromise』(2019年)
現代英国R&Bにおける恋愛の機微、軽やかなグルーヴ、親しみやすいメロディを備えた作品。Maya DelilahよりもR&B色が強いが、関係性を冷静かつ率直に描く歌詞の感覚には共通点がある。
5. Raveena『Lucid』(2019年)
柔らかなネオ・ソウル、夢見心地のプロダクション、親密なヴォーカルが特徴の作品。Maya Delilahの「Moonflower」や「Tangerine Dream」に通じる、淡く内省的なR&Bの美学を味わえる。



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