発売日: 1984年5月
ジャンル: ニューウェーブ、ポップロック、アートロック、ソフィスティポップ
概要
『In the Long Grass』は、The Boomtown Ratsが1984年にリリースした6作目にして最後のスタジオ・アルバム(当時)であり、時代の変化とバンドの成熟、そして終焉の気配が入り混じる、静かなるラストステートメントである。
ニューウェーブの波が過ぎ去り、MTV以後の映像時代へと突入する1984年というタイミングにおいて、本作は彼らの“語るポップ”から“聴かせるポップ”への移行と、感情表現の微細化を志向した、非常に静謐でパーソナルな作品となっている。
サウンド面では前作『V Deep』の流れを汲みつつ、よりソフトで洗練されたアレンジ、トロピカルでソフィスティケイテッドな質感が強まっている。
これは、1980年代中盤のポップシーンにおけるスティーリー・ダンやPrefab Sproutなどに通じるスタジオ志向の音作りでもあり、Boomtown Rats の“ニューウェーブ的反骨”はここでほとんど“内省と気品”に置き換わっている。
チャート的には振るわなかったが、本作にはボブ・ゲルドフの“最後まで語り続けようとする意志”が確かに息づいており、最終作として静かにリスナーに寄り添う懐の深さがある。
“草むらの中で静かに身を伏せながら”、それでも耳を澄ませるようにして紡がれた楽曲たちは、今日では“失われた80sポップの名品”として再評価されつつある。
全曲レビュー
1. A Hold of Me
暖かいキーボードと控えめなブラスが印象的なソフト・ロック調のオープニング。
“何かに捕らえられている”というフレーズは、恋か不安か、それとも現実そのものか。
焦燥と安堵がせめぎ合う、不穏な優しさに包まれた一曲。
2. Drag Me Down
本作のリードシングルであり、最もパワフルなメッセージを持つロックナンバー。
「俺を引きずり下ろしてみろ」と歌うゲルドフの声には、かつての怒りではなく、冷静な反骨と誇りが宿る。
キャッチーながら内に炎を秘めた名曲。
3. Dave
穏やかなピアノと語り口調の歌唱が印象的なバラード。
“デイヴ”という名の友人を失った悲しみを描いたとされ、死、喪失、そして赦しがテーマとなっている。
Boomtown Rats のカタログの中でも最も感情的で美しい瞬間のひとつ。
4. Over Again
繰り返される感情、日々、記憶。
“また繰り返しだ”という歌詞の通り、ループするビートとシンセが、“抜け出せない人生”を象徴する。
ニューウェーブの終末感を体現した曲でもある。
5. Another Sad Story
タイトル通りの“また悲しい話”。
シンセストリングスとスローなビートが、記憶の中の風景をなぞるような哀愁を生む。
ポップでありながら、深い疲労と諦めのにじむ楽曲。
6. Tonight
軽快なドラムとコーラスワークによる明るいポップソング。
だが、その歌詞は“今夜だけはすべてを忘れたい”という刹那的な感情に貫かれており、光の中に影が潜んでいる。
Boomtown Rats流の“解放としての一夜”。
7. Hard Times
スラップベースとエレクトロニックなシンセで彩られた、80sらしい都会的トラック。
“困難な時代”という言葉が、経済や政治ではなく、個人の精神状態に降り注いでいる。
ダンサブルだが決して明るくはない、夜の音楽。
8. Lucky
皮肉とも、真実とも取れる“ラッキー”という言葉をテーマにした楽曲。
Boomtown Ratsの原点的な風刺のセンスがわずかに残っており、“幸運とは何か”を問う曖昧なポップナンバー。
9. An Icicle in the Sun
“陽だまりのつらら”という美しい矛盾をタイトルにした、極めて詩的なバラード。
溶けていく心、失われていく感情、それでも残る温もりの記憶を丁寧に描いている。
バンド後期の静かなる名曲。
10. Up or Down
最後を締めくくるのは、選択を迫られるようなタイトルの一曲。
“上か、下か”、という二項対立の問いに明確な答えはなく、ゲルドフはただ「その間で揺れている」と歌う。
このアルバムの全体像を象徴する、終わらない問い。
総評
『In the Long Grass』は、The Boomtown Ratsが最前線を離れ、“静けさの中で何かを伝えること”に賭けた成熟と喪失のアルバムである。
かつては怒りに満ちた語り部だったボブ・ゲルドフは、ここで静かに語りかける孤独な詩人となり、リスナーと“同じ場所”に立つようになった。
アルバム全体に漂うのは、熱狂の後に訪れる静寂と、再構築されないままの感情の残骸である。
しかしその断片たちは、どこか優しく、あたたかい。
これは決して敗北ではなく、“それでも音楽を作り続ける”という誠実な選択の記録であり、彼らの物語の“いったんの終わり”を静かに祝福する作品なのだ。
おすすめアルバム(5枚)
-
Prefab Sprout / Steve McQueen
詩的でソフィスティケイテッドな80sポップの極北。『In the Long Grass』と同じ気配を持つ。 -
The Style Council / Our Favourite Shop
社会性と個人の感情を融合した英国的ポップ。ゲルドフと同じ成熟の道を辿る。 -
David Sylvian / Brilliant Trees
静けさの中に感情が宿る芸術的ポップ。内面の風景を音にしたような作品。 -
Roxy Music / Avalon
耽美とメランコリーが融合したラグジュアリー・ポップ。Boomtown Ratsの終盤の美意識と通じる。 -
Talk Talk / The Colour of Spring
ポップからポストロック的深淵へ。“終わりの後にある音楽”としての感触が共通する。
コメント