
発売日: 1990年(Comsat Angels名義ではなく“Dream Command”としてリリース)
ジャンル: オルタナティヴロック、シンセポップ、アートロック
概要
『Fire on the Moon』は、The Comsat Angelsが“Dream Command”名義で1990年にリリースした唯一のアルバムであり、バンド史上もっとも異色で謎めいた作品である。
この名義変更は商業的事情によるもので、従来のバンド名に縛られない形で新たな市場開拓を狙った結果とされるが、リリースは主にアメリカ市場に限定され、広範な流通には至らなかった。
音楽的には、1980年代後半〜90年代初頭のトレンドを意識したスムーズなプロダクションと、シンセやギターのクリアなアレンジが目立ち、かつての“冷たいポストパンク”とは距離を取った内容となっている。
一見するとバンドの“終焉”を予感させる作品だが、リリックの内面性や音の奥行きにはThe Comsat Angelsらしい哀愁が色濃く漂っており、後年には「もう一つのフェーズ」として再評価が進んでいる。
全曲レビュー
1. Celestine
洗練されたドラムとシンセを伴うアーバンなオープナー。
恋愛とも信仰とも取れる“セレスティン”という存在に向けた、謎めいたリリックが印象的。
2. Whirlwind
本作の中でも最もアグレッシブなロック・トラック。
タイトル通り、心の中で渦巻く感情の暴風を描く。
ギターは鋭く、ヴォーカルもこれまでにないほどエネルギッシュである。
3. Sleep Talk
スローなテンポと、夢と現実の境界を行き来するような幻想的なアレンジ。
“無意識の対話”としての歌詞が、アルバムの中でも際立つ詩的トーンを見せる。
4. Reach for Me
メロディアスで柔らかいポップス寄りのナンバー。
従来のComsat Angelsファンには驚きを与えたが、90年代的なAOR〜インディ感覚の先駆として聴くと非常に興味深い。
5. Ice Sculpture
このアルバムで最もComsat Angelsらしい楽曲。
タイトルが象徴するように、冷たく美しい音像と、静かな内面の痛みが交錯する。
6. Venus Hunter
エレクトロニックな要素が強めのダンサブルなトラック。
一見軽やかだが、リリックにはジェンダーや欲望にまつわる複雑な主題が潜む。
7. Fire on the Moon
タイトル・トラック。
月という幻想的な対象に“火”を灯すという逆説的なイメージが、全体の謎めいた空気を集約している。
ミッドテンポのアレンジに、儚くも壮大なスケール感が漂う。
8. Instinct
動物的な衝動と理性のせめぎあいを描いた、リズム主導のナンバー。
硬質なドラムとボーカルの対比が新鮮な印象を与える。
9. Can’t Make Sense
アルバム終盤に登場する、混乱と自己否定を描いた内省的な楽曲。
「意味なんて分からない」と繰り返すフレーズは、本作全体のテーマと共鳴しているようでもある。
10. Venus Hunter (Reprise)
ラストは6曲目の再演によって、ループ的・夢想的な幕引きを迎える。
再構成というより、記憶の残響のように機能する締め括りだ。
総評
『Fire on the Moon』は、The Comsat Angelsの本流とはやや異なるベクトルで生まれた作品である。
“Dream Command”という仮名義に象徴されるように、本作はまるで記名性のない夢、記録されない記憶、あるいは一夜の幻のような趣を持つ。
80年代の終焉と90年代の幕開けという過渡期にあって、バンドはここで最もパーソナルかつ実験的な音楽を提示したとも言える。
明快なヒットやメッセージがあるわけではない。
しかし、全体を通して感じられる“薄明の哀しみ”と、“名づけ得ぬ感情の輪郭”は、確かにThe Comsat Angelsというバンドが辿った旅路の一部なのだ。
おすすめアルバム(5枚)
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Talk Talk – Spirit of Eden (1988)
ロックとアンビエントの境界を曖昧にした精神的作品。内省の深度が共通。 -
David Sylvian – Secrets of the Beehive (1987)
幻想性と静けさの融合。『Fire on the Moon』の夢幻性と響き合う。 -
The Blue Nile – Hats (1989)
アーバンでメランコリックなサウンド。90年代の幕開けを感じさせる空気感。 -
China Crisis – Diary of a Hollow Horse (1989)
柔らかく洗練されたUKポップ。本作のメロディ志向と重なる要素多数。 -
The Cure – Disintegration (1989)
情緒的スケールと個の内面を同時に描いた大作。後期Comsat Angelsの延長線上にある。
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