発売日: 2011年9月
ジャンル: MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)、バラード、ジャズ・ボサ、アコースティック・ポップ
概要
『Elo』は、マリア・ヒタが2011年に発表した4作目のスタジオ・アルバムであり、そのタイトル「Elo(絆、リンク)」が示す通り、人と人とのつながり、音楽と記憶の連鎖を静かに紡ぐ作品である。
前作『Samba Meu』ではパーカッシブなサンバへと大胆に踏み出し、“身体の音楽”を体現したマリアだったが、本作では一転して、声とメロディ、言葉の余韻に深く耳を澄ませる“静かなMPB”へと回帰。
アコースティック主体の編成、丁寧に選ばれたリリック、そして母エリス・レジーナへのささやかなオマージュなど、内面と向き合うような親密さと誠実さが貫かれている。
プロデュースはマリア自身とマルセロ・メデイロスが共同で担当。
作曲陣にはイヴァン・リンス、ジョアン・カヴァルカンチ、セサル・メンデス、ヂオゴ・ナセルら、現代MPBの作家たちが名を連ね、サウンドはジャズ的な柔らかさとサンパウロ的モダン感覚をたたえている。
全曲レビュー
1. Conceição dos Coqueiros(作詞作曲:Luiz Adega, Pedro Baby)
穏やかなアコースティック・ギターとスキャットで始まる、風景描写的な冒頭曲。
“ココヤシのあるコンセイサン”という地名が詩的象徴となり、心の故郷へのまなざしを感じさせる。
2. Coração a Batucar(作詞作曲:Davi Moraes, Arlindo Cruz)
ラテン・ジャズ調の軽快なリズム。
“胸の鼓動そのものがリズムを生む”というテーマが、マリアの柔らかな歌唱で洒脱に表現される。
3. Pra Matar Meu Coração
失恋と再生の間にある微細な感情を、抑制されたヴォーカルで描くバラード。
シンプルなピアノとパーカッションが、感情の余白を大切に演出する。
4. A História de Lily Braun(作詞作曲:Edu Lobo, Chico Buarque)
チコ・ブアルキとエドゥ・ロボによる名曲のカバー。
かつて母エリス・レジーナも取り上げた楽曲で、時代と視点を超えて再解釈されるその歌唱には、記憶と今をつなぐ“絆=elo”の主題が込められている。
5. Nem Por Um Segundo
少しファンキーなギターリフが効いたミディアム・テンポ。
“たった一秒だって君を忘れない”という切実な言葉を、軽やかな声で包み込むように歌い上げる。
6. Reza(作詞作曲:Samuel Rosa, Chico Amaral)
軽やかな祈りのようなボサノヴァ調。
「願い」を意味するタイトル通り、日常のささやかな希望をメロディに託した一曲。
7. O Que É o Amor(作詞作曲:Arlindo Cruz, Maurição)
サンバ・カンサォン風の穏やかなラブソング。
“愛とは何か”という普遍的テーマに、マリアは囁くような声でそっと寄り添う。
8. No Mistério do Samba
再びサンバのリズムが軽やかに戻る。
しかし熱狂ではなく、深夜の街角で聴こえるような、静かな哀愁をたたえている。
9. Num Corpo Só(ライヴ・セルフカバー)
『Samba Meu』からの再演。テンポとリズム感を微調整し、より熟成された響きに。
10. Menininha(作詞作曲:Paulinho da Viola)
幼い娘へのまなざしを描いた名曲。
母親としてのマリアの一面が垣間見え、声に母性的なぬくもりが宿る。
11. Main Title: Ela e Eu(ボーナストラック)
映画『Ela e Eu』のテーマ曲。
インストゥルメンタルに近い構成で、ピアノとストリングスの中にマリアの声が溶け込むように響く。
総評
『Elo』は、マリア・ヒタという表現者が、声と感情、記憶と今をつなぐ“結び目”としての役割を引き受けたアルバムであり、派手さよりも、時間の中に沈み込むような美しさを志向した作品である。
本作での彼女の歌声は、強く押し出すのではなく、**聴き手に寄り添い、感情を受け取るための“受容の声”**として響いており、それは彼女のキャリアの中でも非常に成熟したアプローチといえる。
特に「A História de Lily Braun」のカバーにおいては、母と娘、時代と現在、歌い継がれる文化の意味が凝縮されており、このアルバムの主題である“Elo=つながり”が鮮明に浮かび上がる。
マリア・ヒタはここで、ブラジル音楽の伝統をただ継承するのではなく、感情の密度と音楽の呼吸の中に、より深く浸透させる方法を選んだ。
『Elo』は、耳元で語りかけるように、記憶の奥を静かに揺さぶる。
それは、一過性の流行でもなく、華やかな技巧でもなく――
人と人、声と声、時と時を結ぶ、優しく強い“絆”のアルバムなのだ。
おすすめアルバム(5枚)
- Elis Regina『Essa Mulher』
母エリスの中期の名盤。マリアの歌唱との“つながり”を感じられる作品。 - Marisa Monte『O Que Você Quer Saber de Verdade』
同時代の女性MPBシンガーによる“聴かせる”アルバム。内面性の深さが共鳴。 - Joyce Moreno『Rio Bahia』
声とギターが編み上げる親密なMPB。マリアの静かな語りと響き合う。 - João Bosco『Malabaristas do Sinal Vermelho』
作家として『Elo』に関与したジョアン・ボスコの代表作。リズムと抒情が共存。 - Vanessa da Mata『Sim』
現代ブラジルのポップとMPBの交差点に立つ名盤。マリアとは対照的な光の表現が補完的。
歌詞の深読みと文化的背景
『Elo』のリリックは、サンバやボサノヴァのように明確な物語性を持つというより、詩的断章の積み重ねによって“感情の風景”を描くものが多い。
たとえば「Reza」や「O Que É o Amor」では、愛や祈りといった抽象的な主題を、日常のさりげない言葉で静かに照らす手法が取られており、これは現代ブラジルの“都会的な感性”に根差した歌詞美学といえる。
また、「A História de Lily Braun」や「Menininha」に象徴されるように、“母と娘”“女としての人生”というモチーフも本作の核にあり、女性的な視点から人生の時間を静かに見つめ直す作風が全編に通底している。
『Elo』は、語ることよりも“聴くこと”を大切にしたアルバムであり、歌うとは“つながること”であるという静かな哲学をたたえた、マリア・ヒタのもうひとつの傑作なのである。
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