発売日: 2009年8月24日
ジャンル: エレクトロニカ、アート・ポップ、シンセ・ポップ、アンビエント・ポップ
概要
『Ellipse』は、イモージェン・ヒープが2009年に発表した3作目のスタジオ・アルバムであり、自宅スタジオから世界へと広がる、個人と宇宙のあいだを滑空するような“内的エレクトロニカ”の傑作である。
ロンドンの自宅に構えた地下スタジオ“Ellipse（楕円）”で制作された本作は、前作『Speak for Yourself』で確立されたDIY精神と電子音響の緻密さをさらに深化させたアルバムであり、
同時に、日常生活や家庭、身体、会話といった“地に足の着いたリアリティ”を詩的に抽出し、音で拡張するというアプローチが際立っている。
本作はグラミー賞「最優秀エンジニア・アルバム賞（非クラシック部門）」を受賞しており、セルフ・プロデュースでありながら音響的完成度の極みに達した作品として高く評価された。
全曲レビュー
1. First Train Home
アルバムの先行シングル。
帰宅を急ぐという日常的な場面から、**“心の居場所を探し続ける感覚”**を抽象化して描く。
アップテンポのエレクトロ・ポップながら、内面に渦巻く不安と安心の狭間が漂う。
2. Wait It Out
静謐なピアノと細やかな電子音が織りなすバラード。
「嵐が過ぎ去るのを待つしかない」という諦めにも似た心情が、抑制された情緒と美しいハーモニーで綴られる。
3. Earth
タイトル通り、自然と人間、身体感覚をテーマにしたトラック。
ループされるパーカッションと重層的なヴォーカルが、土の匂いすら感じさせる有機的な響きを生む。
4. Little Bird
さえずりのような電子音と遊び心に満ちたメロディが特徴。
些細な存在（鳥）に託された、観察と慈愛、そして自由の象徴。
5. Swoon
ヒープらしい緻密なエレクトロニカ構築が光るロマンティックな一曲。
“うっとりする”という感情が、音そのものによって誘発されるような作りになっている。
6. Tidal
感情の満ち引きを“潮流（tide）”になぞらえた壮麗なミディアム・トラック。
電子音が波のように押し寄せ、恋愛の動揺を空間ごと包み込む。
7. Between Sheets
静かで親密な空間を描いたラブソング。
まさに“シーツのあいだ”に生まれる感情を、ささやくようなボーカルと柔らかいアレンジで演出。
8. 2-1
鋭利でインダストリアルな質感を持つ異色作。
「2対1」という構図に秘められた緊張関係、あるいは感情の優劣や対立の構図を描写。
サウンドも歌詞もダークで哲学的。
9. Bad Body Double
自分の分身＝“もう一人の自分”を皮肉とユーモアで描いた風変わりな楽曲。
現代的な自己意識と乖離をテーマに、鏡の中の自分を笑い飛ばすような自由さが魅力。
10. Aha!
パズルのピースがはまる瞬間のような“ひらめき”をテーマにした実験的トラック。
拍の取りにくさと語りのようなヴォーカルが、思考の迷宮から抜け出すダイナミズムを体現している。
11. The Fire
わずか1分少々のミニマルなインタールード。
音の少なさが、かえって内側に燃える感情や記憶の残像を想起させる。
12. Canvas
アルバム中でも屈指の名曲。
「心は真っ白なキャンバスで、誰かの言葉や行動で塗りつぶされていく」というテーマが、音と視覚的イメージの両面から描かれる。
壮大なビルドアップとストリングスが感動的。
13. Half Life
“半減期”を意味するタイトル通り、時間と感情が静かに崩れていくプロセスを描いた終幕。
愛、記憶、自己――すべてが薄れていく中で、なお残るものの尊さが滲む。
総評
『Ellipse』は、イモージェン・ヒープが音楽家としての職人性と詩人としての鋭敏さを同時に深化させた、極めてパーソナルかつ普遍的な“生活と心象の交差点”の記録である。
ピアノ、ヴォーカル、フィールドレコーディング、緻密なエフェクト処理、そしてリリックに宿る観察眼――
これらが織りなす音楽は、耳を満たすというより、空間に染み込んでくるような体験であり、
聴き手に“思考する時間”と“感じる余白”を与えてくれる。
このアルバムには、日々の気配や感情の襞といった、捉えにくいものたちを捕まえて可視化する、詩的な科学者としてのヒープの姿がある。
『Ellipse』は、彼女の内宇宙を回遊するような旅でありながら、誰にとっても馴染みのある“心の景色”へとつながっていく名作である。
おすすめアルバム（5枚）
- Agnes Obel『Philharmonics』
ピアノと静けさ、内面と響きの調和。イモージェンの静的美学に通じる。 - St. Vincent『Actor』
アート・ポップと感情の知性を融合させた傑作。構築美とポップ感覚が共通。 - Bjork『Vespertine』
囁き声のような歌とマイクロサウンドが織りなす極私的宇宙。ヒープにとっての精神的姉妹作。 - Bat for Lashes『The Haunted Man』
幻想的で身体的な女性的ポップの深化系。Ellipseの感覚に似た神秘がある。 - Julia Holter『Have You in My Wilderness』
詩性と構築美、音楽と文学が融合した知的ポップ。ヒープの精緻な音作りと呼応。
歌詞の深読みと文化的背景
『Ellipse』のリリックは、家庭、身体、感情、自然といった一見私的で静かな主題を、普遍性のある抽象にまで昇華させている点に最大の魅力がある。
「First Train Home」は“逃げ場”を求める心の軌跡、「Canvas」は“他人の手によって塗られる自己”という存在論的テーマ、
「Bad Body Double」や「Half Life」では、自己とその分身、時間による劣化と再定義といった、哲学的モチーフがさりげなく織り込まれている。
それらは、ヒープの声と音響によって具象化されることで、ひとつの小さな感情が、やがて巨大な風景へと変わっていくような知覚変容を促す。
このアルバムは、“小さなものを大きく響かせる音楽”であり、日常のなかにある詩情と広大さを丁寧に抽出する顕微鏡のような作品である。
『Ellipse』は、耳を澄ます者にだけ訪れる、時間の楕円軌道上の詩なのだ。
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