
発売日: 1998年
ジャンル: インディーポップ、ローファイ、サイケデリック・フォーク、バロックポップ
概要
『Don’t Cry Baby… It’s Only a Movie』は、Television Personalitiesが1998年にリリースした8作目のスタジオ・アルバムであり、ダン・トレイシーの内面崩壊と作家としての誠実さが共存した“感情の断片集”とも言える作品である。
タイトルの「泣かないでベイビー、それはただの映画だから」という言葉には、現実と虚構、人生とフィクションの境界が曖昧になるような皮肉と慰めのニュアンスが込められている。
本作はTelevision Personalitiesとしての活動が断続的になっていた時期に制作され、録音の粗さやサウンドの未完成感すらも、作品全体の“壊れかけた日常の記録”として機能している。
音楽的には、初期のネオアコ的手触りを残しながらも、よりフォーキーで退廃的なムードが強まり、ローファイという形式のなかに詩的な痛みとユーモアが交差する、非常にパーソナルなアルバムとなった。
『Closer to God』『Privilege』といった前作たちが築いたサウンド的なスケールや情緒の深さに比べて、本作はより粗野で壊れやすく、まるで夢のあとに書かれた日記のような切なさと手触りを持っている。
全曲レビュー
1. We Will Be Your Gurus
『Closer to God』収録の楽曲を再演。
“僕らが君の導師になる”という皮肉なメッセージを、より脱力したアレンジと虚無的なトーンで描き直しており、トレイシーの“信じること”への深い懐疑心がにじむ。
2. Pretend It’s a War
戦争をメタファーに、恋愛や人間関係の破綻を語る異色のポップソング。
「戦争だと思い込めば怖くない」という皮肉が、むしろ現実逃避の限界を静かに示している。
3. If I Could Write Poetry
「詩が書けたら、きみに伝えたいことがある」――
文学的コンプレックスと、言葉にならない想いの混在がこの曲の核心。
淡くて切ない旋律が、“言葉にならない愛”をより際立たせる。
4. I Remember Bridget Riley
実在の女性アーティスト(ブリジット・ライリー)への回想と憧憬。
芸術と記憶、現実と観念の曖昧さを描いた、知的でメランコリックなトラック。
静かに語られるトレイシーの美意識が響く。
5. All the Young Children on Crack
本作でもっとも衝撃的なタイトル。
“クラックを吸う子どもたち”というフレーズが、社会の崩壊、無力感、諦めを象徴する。
メロディはシンプルで、逆に歌詞の重みが際立つ。
6. The Jesus Song
イエスをモチーフにした内省的バラード。
宗教的というよりも、“信じるものの欠如”と“救いを求める不器用さ”が表現された祈りのような曲。
歌唱は弱々しいが、そこにこそ真実味が宿る。
7. My New Tattoo
小さな選択=タトゥーが語る人生の傷痕。
ファッションや表象に込められた本音を、軽やかなユーモアで包みながら描写している。
気だるさと誠実さが混じる小品。
8. I Knew You’d Understand
「君なら分かってくれると思った」――
その言葉が、理解されなかった痛みの裏返しとして響く。
トレイシーの歌詞は常に、期待と諦めの間を揺れている。
9. An Exhibition by Joan Miró
スペインの画家ジョアン・ミロの展覧会をめぐるイメージソング。
芸術作品の中に逃げ込むような孤独と、美に救われる感覚が詩的に表現される。
美術的オマージュの一曲。
10. Now That I’m a Junkie!
「今じゃ俺はジャンキーさ!」と開き直るようなタイトル。
実際に精神的・物質的な依存の影が色濃く滲む一曲であり、ユーモアに見せかけた自己破壊の告白として極めて生々しい。
11. There’s No Beautiful Way to Say Goodbye
アルバムのラストを飾る、別れをめぐる哀切なバラード。
「さようならを美しく言う方法なんてない」――
その一言にすべてが集約される、トレイシーの誠実な人生観と創作姿勢が表れた名曲。
総評
『Don’t Cry Baby… It’s Only a Movie』は、Television Personalitiesが幻想の時代を通り過ぎたあとの“フィクションの後日譚”のようなアルバムであり、言葉と音楽を手放しかけた人間が、それでも手元に残った破片だけで語ろうとした最終章のような作品である。
音質の粗さや構成の甘さ、演奏のゆらぎもすべてが意図的に思えるほど、この作品は壊れた心の中の“ノート”のように正直で、儚い。
それはまさに、ダン・トレイシーが愛してきた“映画のような人生”を、エンドロールの前にそっとつぶやくような声で綴った音楽詩なのだ。
おすすめアルバム(5枚)
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Jad Fair & Daniel Johnston / It’s Spooky
粗野なローファイとナイーヴな美しさの融合。トレイシーの精神的親戚。 -
Smog / Knock Knock
乾いたユーモアと痛々しい自己告白。壊れかけのポップの継承者。 -
Bill Fay / Time of the Last Persecution
宗教的幻視と社会への問いが交差する、隠れた英国フォークの傑作。 -
Lou Barlow / Winning Losers: A Collection of Home Recordings 89–97
ローファイな私小説的ポップ。個人録音の寂しさと温かさ。 -
Red House Painters / Down Colorful Hill
無力と抒情のスロウ・コア。『Don’t Cry Baby…』の陰りと響き合う音楽。
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