
発売日:2007年5月22日
ジャンル:Indie Rock / Alternative Rock
概要
The Nationalが2007年に発表した4作目のアルバムがBoxerである。前作Alligatorで評価を高めたバンドが、そこで見せた荒々しさを少し抑え、細部まで整理されたアンサンブルへ進んだ作品だ。Peter Katisとバンドがプロデュースを担当し、Bryce DessnerとAaron Dessnerのギター、Bryan Devendorfのドラム、Scott Devendorfのベースを中心に、ピアノや弦、管楽器を慎重に重ねている。音数は決して少なくないが、それぞれを派手に主張させず、Matt Berningerの低い声を中心として奥行きを作る録音が特徴である。
歌詞の舞台には仕事、パーティー、結婚生活、友人関係、都市での暮らしといった大人の日常が頻繁に現れる。しかし、それらを具体的な物語として説明するのではなく、会話の断片や奇妙なイメージをつなぎ合わせ、社会生活をそれなりに送れている人物の内側にある疲労や不安を浮かび上がらせる。20代の混乱を勢いよく歌うロックとは違い、生活が安定し始めても落ち着けない30代の感覚を扱ったことが、Boxerの独特な立ち位置につながった。
もう一つの中心はBryan Devendorfのドラムである。派手な音色ではないものの、一定の拍を単純に刻むのではなく、細かなスネアやタムを拍の間へ差し込み、静かな曲にも絶えず動きを与える。ギターも大きなリフより反復する短いフレーズを好み、ピアノや管弦楽器と組み合わさって一つの模様を作る。こうした演奏によって、Boxerは一聴すると落ち着いているのに、注意して聴くほど内部の忙しさが見えてくるアルバムになっている。
全曲レビュー
1. 「Fake Empire」
一定の形を繰り返すピアノから静かに始まり、Berningerは眠気を残したような低い声で歌う。ピアノは左右の手で異なる拍のまとまりを重ねているため、穏やかなのに足元がわずかにずれるような感覚がある。歌詞に登場する「偽りの帝国」は明確に定義されず、快適な生活の中で現実から目をそらしている状態としても読める。終盤では管楽器とドラムが加わり、抑制されていた感情が言葉ではなく演奏によって広がっていく。
2. 「Mistaken for Strangers」
細かく刻むギターとBryan Devendorfのせわしないドラムによって、前曲の眠ったような空気を一気に振り払う。仕事や社会的な役割に合わせて振る舞ううち、自分自身まで見失っていく人物を思わせる歌詞で、知っているはずの人間から「他人と間違えられる」という題名がその疎外感を凝縮している。Berningerが感情を爆発させず、低い声を保ったまま歌うことも、疲労した大人の焦燥を強めている。
3. 「Brainy」
ギターとリズム隊が短いパターンを何度も反復し、その上をボーカルが滑るように進む。恋愛感情を扱っているようでありながら、相手への執着と自己意識が混ざり、普通のラブソングには着地しない。特にBerningerの語りかけるような歌い方は、親密さと不気味さの境界を曖昧にする。大きなサビで解放するのではなく、同じ緊張を維持することで人物の思考から抜け出せない感覚を作っている。
4. 「Squalor Victoria」
軍隊の行進を小さな部屋で鳴らしているようなドラムが曲を支え、そこへピアノやギターが少しずつ重なる。序盤のBerningerは低く抑えているが、後半では「Squalor Victoria」という言葉を繰り返しながら声を荒らげ、アルバムでは珍しい直接的な爆発へ達する。日常生活の疲弊と勝利を意味する「Victoria」を並べた題名にも皮肉があり、社会人として機能することと消耗することが表裏一体になった感覚が残る。
5. 「Green Gloves」
テンポを落とし、丸みのあるギターと控えめなリズムによって親密な空間を作る。歌詞の語り手は友人たちの生活へ入り込み、彼らを理解しようとするが、その距離の近さには孤独もにじむ。他人とのつながりを求めるほど、自分がそこから離れた場所にいることを意識してしまうように読める。アレンジも感情を大きく説明せず、反復するギターと低い歌声を保つことで、その微妙な距離感を崩さない。
6. 「Slow Show」
ピアノとギターが控えめに場所を譲り合いながら進み、Berningerの歌詞を前面へ出した一曲である。人前でうまく振る舞えない人物が、特定の相手のもとへ戻りたいと願う構図があり、Boxerに繰り返し現れる社会的なぎこちなさが特に分かりやすい。終盤では過去曲「29 Years」の一節を用いながら歌がより個人的な方向へ近づき、外の世界で演じる自分から、親密な関係の中の自分へ帰っていくような着地を見せる。
7. 「Apartment Story」
軽快なドラムと明るいギターによって、本作では比較的ポップな手触りを持つ。ところが歌詞では、外の世界から距離を置き、二人だけでアパートに閉じこもろうとするような場面が描かれる。生活の小さな幸福と逃避がほとんど同じ行為として扱われている点が面白い。サビでは演奏が自然に大きくなるものの、壮大な理想へ向かわず、あくまで狭い生活空間を守ろうとするところにThe Nationalらしさがある。
8. 「Start a War」
アコースティック・ギターの反復と薄いピアノを中心に、ほとんど壊れそうな静けさを保つ。語り手は関係の終わりを予感しながら、それを正面から処理できずにいるように聞こえ、「戦争を始める」という強い題名とは反対に演奏は徹底して抑制されている。後半に楽器が増えても完全な爆発には至らない。この未解決のまま終わる感覚が、口論そのものより、その直前にある重苦しい沈黙を想像させる。
9. 「Guest Room」
一定のテンポで進むドラムの上にギターとキーボードが重なり、閉じ込められたような感覚を作る。題名の「客室」は本来一時的に滞在する場所だが、歌詞ではそこから出られなくなるようなイメージへ変化していく。安定した関係や生活が安心を与える一方、それ自体が逃げ場のないものになるという両義性を感じさせる。感情的なサビを用意しないアレンジも、出口を見つけられない感覚によく合っている。
10. 「Racing Like a Pro」
細いギターの響きと柔らかなリズムによって、アルバム後半でも特に静かな場所を作る。歌詞では、かつて勢いよく進んでいた人物が疲れ、周囲からその変化を見られているような状況が浮かぶ。「プロのように走る」という題名にもかかわらず、聞こえてくるのは成功の高揚より消耗である。Berningerのほとんど独白に近い歌唱によって、他者からの評価と本人の実感がずれていく様子が静かに残る。
11. 「Ada」
ピアノを軸にしながら弦や管楽器を織り込み、後半へ進むほど細部が増えていく。歌詞はAdaという人物へ語りかける形を取り、黙っていないで何かを話すよう促すが、彼女が何を抱えているのかは説明されない。その情報の少なさがかえって、親しい相手へ手を伸ばしても完全には理解できない感覚を強める。Sufjan Stevensもピアノで参加しており、室内楽的な色彩が本作の中でも特に明確に表れた曲である。
12. 「Gospel」
最後は大きなクライマックスを作らず、ゆったりしたギターとピアノ、控えめなリズムでアルバムを閉じる。歌詞には誰かを家へ招くような親密な場面と日用品のイメージが並び、壮大な「福音」ではなく、小さな共同生活の中に救いを探しているように読める。Berningerの歌も終始穏やかで、問題が解決したとは感じさせない。それでも他者と同じ場所にいることを選ぶ結末が、孤立を繰り返してきた作品に静かな着地点を与えている。
総評
Boxerは、大きな出来事よりも「普通に生活すること」の中にある不安をロック・アルバムへ持ち込んだ作品である。仕事へ行き、人と会い、恋人や友人と暮らす人物たちは、社会から完全に脱落しているわけではない。むしろ必要なことをこなしているからこそ、その振る舞いが本当の自分なのか分からなくなっていく。Berningerの歌詞はその状態を明快な物語へ整理せず、会話や室内の風景、突飛な比喩を断片として残すことで表現している。
それを支えるバンド演奏も非常に緻密である。特にBryan Devendorfのドラムは、ボーカルが静かなままでも曲を停滞させない。細かな打音を拍の隙間へ入れながら絶えず前進させ、それにDessner兄弟の反復するギターやピアノが絡むため、表面の落ち着きと内部の焦燥を同時に聞かせることができる。派手なギターソロや巨大なリフをほとんど必要とせず、各楽器の小さな動きの組み合わせから緊張を作っている点は、本作の大きな特徴だ。
前作Alligatorと比べても、演奏や録音は明らかに抑制されている。ただし、それはエネルギーが減ったという意味ではない。「Squalor Victoria」のように蓄積した音を最後に爆発させる曲もあれば、「Start a War」のように最後まで爆発を拒む曲もあり、どこで音量を上げるかだけでなく、上げないことまで曲の表現として利用している。12曲を通じて似た暗い音色を保ちながら、それぞれ異なる緊張の作り方を用意したアレンジの精度が高い。
2000年代のインディー・ロックには華やかなダンス・ロックやガレージ・ロックも多かったが、Boxerはそこから距離を置き、低い歌声と慎重なアンサンブルによって独自の場所を作った。即座に耳を奪う派手さより、反復して聴くことでドラムやギター、歌詞の細部が見えてくるタイプの作品である。この方法を完成度の高い形にまとめたことで、The NationalはAlligatorで得た評価を一時的なものにせず、その後のキャリアを支える基本的な音楽語法を確立した。
おすすめアルバム
Alligator by The National
前作にあたる2005年作で、Berningerの低音とDessner兄弟のギターという核は共通している。ただし演奏にはより荒々しい瞬間が多い。ここからBoxerへ進むと、バンドが勢いを失わずに音数と強弱を整理していった過程がよく分かる。
High Violet by The National
Boxerの次に発表された2010年作。反復するギターや細かなドラムを引き継ぎながら、音像はさらに厚くなり、サビも大きく広がる。Boxerの室内的な緊張感が、よりスケールの大きなロックへ発展した姿として比較できる。
Illinois by Sufjan Stevens
「Ada」に参加したSufjan Stevensによる2005年作。音楽自体はフォークや室内楽へ大きく寄っているが、ピアノ、弦、管楽器を細かく配置して密度を作る発想には接点がある。Boxerのロック編成外の音色に惹かれた人には関係が見えやすい。
Turn On the Bright Lights by Interpol
2002年のニューヨーク系インディー・ロックを代表する作品の一つ。低い男性ボーカル、反復するギター、都市生活を思わせる冷えた空気はBoxerと共通するが、Interpolの方がベースとギターの輪郭を鋭く前へ出している。
The Devil and God Are Raging Inside Me by Brand New
2006年作。静かな演奏の内部へ不安を蓄積し、必要な場面だけ大音量へ変化する構成はBoxerと共通する。ただしBrand Newは爆発の振幅がはるかに大きく、同時代のロックが内面の不安を異なる方法で音にした例として比較できる。

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