発売日: 1998年8月24日
ジャンル: トリップホップ、インダストリアル・ヒップホップ、エレクトロニカ、エクスペリメンタル
概要
『Angels with Dirty Faces』は、Trickyが1998年に発表した3作目のスタジオ・アルバムであり、「トリップホップの反英雄」が自らの混沌と対峙しながら鳴らした、静かなる反抗の音楽詩である。
タイトルは1938年のギャング映画『汚れた顔の天使』に由来しており、無垢と堕落、暴力と悲哀、ヒーロー性と破壊性が共存する“都市の少年”の寓話としてのトリッキー自身のイメージが投影されている。
前作『Pre-Millennium Tension』で到達した極限的なノイズと自己崩壊のサウンドから一転、今作はより音楽的構造を取り戻しつつ、依然としてダークでアブストラクトな世界観を維持している。
同時に、ギタリストのスコット・イアン（Anthrax）やフリー（Red Hot Chili Peppers）らロック勢との共演もあり、ジャンル横断的な実験が強く打ち出された作品でもある。
Martina Topley-Birdの不在という変化も大きく、より一人称的かつ閉鎖的な語りが強調された構成となっており、リスナーは“Trickyの頭の中”により深く引きずり込まれていく感覚を覚える。
全曲レビュー
1. Money Greedy
歪んだビートと不穏なギター、そしてTrickyの低く呟くようなボーカル。
「金に取り憑かれた世界」への批判と、それに染まる自己への嫌悪が交錯する。
2. Girls
「少女たち」の存在を幻影のように描き出す、冷たくも魅惑的なトラック。
欲望と保護欲、距離感と執着が入り混じる感情の断片が散りばめられている。
3. Analyze Me
内省的で神経症的な独白。
自分を“分析してくれ”と語る一方で、誰にも理解されないという絶望がにじむ。
4. Singin’ the Blues
タイトル通りブルースの影響を感じさせつつ、Tricky流に解体された暗黒フォーク。
喪失と諦念を繰り返すように語るミニマルな一曲。
5. Killin’ Me
フリーのベースがうねるファンク調のトラック。
「お前は俺を殺してる」という反復が、支配と依存の関係性を浮かび上がらせる。
6. Broken Homes (feat. PJ Harvey)
本作のハイライトにして、PJ Harveyとのスリリングなデュエットが堪能できる傑作。
壊れた家庭のメタファーが、都市の崩壊と個の喪失を二重写しにする。
冷たさと情熱が火花を散らすような緊張感が全編を支配している。
7. 6 Minutes
時間の流れと感覚の歪みを描いたトラック。
ミニマルで無機質なループが、時間に押しつぶされるような精神状態を示す。
8. Talk to Me
対話の欠如と、繋がりへの希求。
「話してくれ」と繰り返される一方で、その声は誰にも届いていない。
9. The Moment I Feared
孤独と焦燥、暴力的な過去の回想を詩的に綴った曲。
ダブ的なリズムとギターが、無数の記憶の断片を編み上げる。
10. Carriage for Two
弦楽器と不穏なビートが重なる幻想的なトラック。
恋愛関係の閉塞感と非現実感を“2人乗りの馬車”という寓意で描写する。
11. Demise
アルバムの終末を告げる、文字通りの「崩壊」トラック。
語りはほとんど囁きとなり、音も霧のように溶けていく。
あらゆるものが静かに終わっていく――そんな余韻を残す。
総評
『Angels with Dirty Faces』は、Trickyが“闇の中でまだ音を鳴らし続けるための、新しいアプローチ”を模索した作品である。
ノイズの極地から一歩引いた本作は、代わりにより明確なメロディ構造と歌詞性、そしてジャンル横断的な共演による奥行きを手に入れている。
特に「Broken Homes」でのPJ Harveyとの緊張感ある掛け合いは、90年代英国アンダーグラウンドの到達点のひとつとさえ言えるだろう。
その一方で、Martinaの不在は確実にサウンドの変質をもたらしており、男女の対話構造から、より一方的な独白構造へと変化している。
その結果、Trickyという存在がより強烈に、そして孤立的に浮かび上がる。
『Maxinquaye』の幽玄さや、『Pre-Millennium Tension』の暴力性を期待して聴くと戸惑うかもしれないが、
この作品にしかない“都市の午後のような沈んだ光”と、“破滅のエレガンス”は、Trickyの深淵を知る上で欠かせない一枚である。
おすすめアルバム
- PJ Harvey / Is This Desire?
同時期の共鳴を感じる、荒廃と官能を併せ持つ音の文学。 - Portishead / Third
トリップホップからさらに前衛的に踏み出した孤高のサウンド。 - David Sylvian / Dead Bees on a Cake
静かで内向的、そして精神性の高い音楽として共振する作品。 - Broadcast / Work and Non Work
冷たく美しい女性ヴォーカルとサイケデリックな構成。 -
Unkle / Psyence Fiction
90年代後半のUKアンダーグラウンド・コラボの象徴的作品。
歌詞の深読みと文化的背景
『Angels with Dirty Faces』におけるTrickyの歌詞は、より日記的かつ詩的な断片としての性格を強めている。
「Killin’ Me」や「Talk to Me」のような曲では、コミュニケーションの不全と、愛と暴力の接点がテーマとして繰り返される。
また、「Broken Homes」というキーワードに象徴されるように、家族、故郷、過去といった根源的な基盤が崩壊した個人の視点から、都市や社会を透かし見る構造が本作全体に通底している。
このような視点は、ポストサッチャー時代のUKにおける“喪失感”の音楽的表現として非常に示唆的である。
『Angels with Dirty Faces』は、破綻した現実と、そこに取り残された魂の声が響く、“破滅の中でしか響かない音楽”の美学を体現したアルバムである。
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