アルバムレビュー：Adrian Thaws by Tricky

発売日: 2014年9月8日
ジャンル: トリップホップ、エレクトロニカ、ラップ、ダブ、アーバン・ソウル

概要
全曲レビュー
総評
おすすめアルバム
歌詞の深読みと文化的背景
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概要

『Adrian Thaws』は、Trickyが2014年に発表した通算11作目のスタジオ・アルバムであり、彼の本名をタイトルに冠することで“パーソナル”かつ“匿名性の解体”を図った意欲作である。

Trickyはかつて「俺は“Tricky”というキャラクターを演じている」と語っていたが、このアルバムではその仮面を脱ぎ捨てるように、多様な音楽スタイルとヴォーカリストを通じて“Adrian Thawsという人間”の断片を浮き彫りにしている。

アルバム全体はジャンルレスかつ断片的で、トリップホップ、ハウス、ヒップホップ、ダブ、ソウル、アフロビートなどが入り混じるクロスオーバーな構成となっており、
それはまるで「本名の下にあるすべての音」をマッピングした地図のようでもある。

Trickyの言葉を借りれば、「これは一つのジャンルに縛られた作品ではなく、俺の脳内のスナップショット」なのだ。

全曲レビュー

1. Sun Down (feat. Tirzah)

囁くようなTirzahのヴォーカルが印象的な、ミニマルでスモーキーなオープニング。
都市の夜と、静かな欲望が交錯するトラックで、内省の幕開けを告げる。

2. Lonnie Listen (feat. Mykki Blanco & Francesca Belmonte)

ジャンルを超えた存在・Mykki Blancoとの共演で、ラップ、詩、呪術のような要素が入り混じる。
トランスジェンダーやクィア性の表現も含意し、アイデンティティの流動性を強く示す。

3. Something in the Way

ニルヴァーナの名曲とは別物。
不穏なコード進行と反復するフレーズが、不確かな“道”を象徴する。

4. Keep Me in Your Shake (feat. Nneka)

ナイジェリア系シンガーNnekaを迎えたエモーショナルなソウル・トラック。
リズムと哀感が共存し、“感情の揺れ”を音で表現する。

5. The Unloved (feat. Bella Gotti)

パリのアンダーグラウンドを象徴する女性MCとの共演。
愛されなかった者たちの声が、重たいビートの上で呟かれる。

6. Nicotine Love (feat. Francesca Belmonte)

本作のリード曲にして、メロディと中毒性のあるビートが際立つ一曲。
「ニコチンのように愛して」は、欲望と依存の象徴的比喩。

7. Gangster Chronicles

タイトル通り、暴力と都市、サバイバルの記録。
ヒップホップ的文脈にTrickyが戻ってきたことを感じさせる。

8. I Had a Dream (feat. Francesca Belmonte)

夢と現実の境界が曖昧な、耽美的でやや不気味なラブソング。
ポスト・トリップホップ的な美意識が強く表れた作品。

9. My Palestine Girl

中東情勢を意識した政治的メタファー。
ロマンスと戦争、自由と抑圧が複雑に重なるリリックと構成。

10. Why Don’t You

スカスカの構成とループによって、空虚な対話が強調される。
“なぜ言わないのか？”という問いが、都市の孤独を象徴する。

11. Silly Games

ローズマリー・アーカートの同名曲のカバー。
オリジナルのラヴァーズロック感はそのままに、Tricky流の哀愁が加わる。

12. Right Here

アルバムのラストを飾る静かなトラック。
「ここにいる」という確かな主張が、Trickyの“実在”をしずかに響かせる。

総評

『Adrian Thaws』は、Trickyが“ジャンルという衣を脱ぎ、自らの多様な音楽的DNAをさらけ出した実験作”である。

「本名＝Adrian Thaws」の名を冠した本作は、自己のアイデンティティに対する解体と再構築のプロセスそのものであり、
そこには“Tricky”というキャラクターにまとわりついてきた過去の期待や幻想から脱する意志が感じられる。

一曲ごとのトーンはバラバラで、アルバム全体に一貫した物語性は希薄だが、それこそがこの作品の狙いだ。
仮面を外したときに残るのは、不安定で断片的な現実＝Adrian Thawsという存在の地声なのだ。

また、多国籍のアーティストとのコラボレーションは、Trickyの“中間者”としての立場、そしてあらゆるカテゴリーを超えて繋がることへの美学を象徴している。

歌詞の深読みと文化的背景

『Adrian Thaws』のリリックには、自己という概念の不確かさ、都市の孤独、政治的圧力、愛と欲望の揺らぎが満遍なく詰め込まれている。
「My Palestine Girl」では愛を通じて語られる抑圧の物語が、中東問題への比喩となっており、
「Nicotine Love」では中毒と愛情が不可分であることが、極めて現代的な関係性として示される。

また、「Silly Games」のような選曲は、Trickyの“育ってきた音楽文化”への回帰であり、ラヴァーズロックやUKブラックミュージックの歴史とも接続している。

『Adrian Thaws』は、“わたしとは誰か”という問いを、トラックと声の断片で答えようとする、Trickyのセルフ・エスノグラフィー的作品なのである。