
発売日:2024年1月26日
ジャンル:アート・ロック、オルタナティヴ・ロック、ポストロック、ジャズ・ロック、エクスペリメンタル・ロック
概要
The Smileの『Wall of Eyes』は、2024年に発表されたセカンド・アルバムである。The Smileは、RadioheadのThom YorkeとJonny Greenwood、そしてジャズ・ドラマーTom Skinnerによるトリオで、2022年のデビュー作『A Light for Attracting Attention』では、Radiohead以後の実験性を保ちながら、より小回りの利くバンド・サウンドを提示した。
本作『Wall of Eyes』は、その延長線上にありながら、より静かで、より不穏で、より室内楽的な作品である。前作がポストパンク的な緊張や鋭いリズムを多く含んでいたのに対し、本作ではアコースティック・ギター、ストリングス、変則的なリズム、余白の多い音響が中心となる。派手な爆発よりも、音がゆっくり崩れ、ねじれ、沈み込む過程が重視されている。
タイトルの「Wall of Eyes」は、「目の壁」と訳せる。これは、監視社会、他者の視線、メディア、デジタル空間、群衆の匿名性を連想させる言葉である。Radiohead以降、Thom Yorkeは一貫して、現代社会における不安、情報過多、疎外、身体感覚の崩壊を歌ってきた。本作でもそのテーマは継続しているが、表現はより内向的で、冷たい水面の下に不安が沈んでいるような印象を与える。
Jonny Greenwoodのギターとストリングス・アレンジは、本作の大きな軸である。彼の音楽性は、ロックのリフよりも、現代音楽、映画音楽、ミニマルな反復、微細な不協和に近い。Tom Skinnerのドラムは、ロック的な直線性ではなく、ジャズ的な揺れとポリリズムを持ち、曲に不安定な呼吸を与える。Thom Yorkeの声は、以前よりもさらに幽霊的で、言葉はしばしば断片として漂う。
『Wall of Eyes』は、即効性のあるロック・アルバムではない。むしろ、聴くたびに音の影や隙間が見えてくる作品である。Radioheadの『In Rainbows』や『A Moon Shaped Pool』に通じる繊細さを持ちながら、The Smileならではの小編成の緊張感もある。静かな作品でありながら、非常に高い密度を持つアルバムである。
全曲レビュー
1. Wall of Eyes
タイトル曲「Wall of Eyes」は、アルバム全体の空気を決定づける楽曲である。アコースティック・ギターの穏やかな反復、柔らかいパーカッション、漂うようなボーカルが組み合わされ、一見すると静かな曲に聴こえる。しかし、その内側には強い不安が潜んでいる。
タイトルが示す「目の壁」は、見られている感覚、逃げ場のない監視、社会的な視線の圧力を想起させる。Thom Yorkeの歌唱は、告発するというより、すでにその視線に囲まれて疲弊した人物の声として響く。曲の穏やかさは安心ではなく、諦めに近い。
ストリングスの使い方も重要である。曲の背後で広がる弦の響きは、感情を大きく盛り上げるのではなく、空間に薄い不穏さを加える。アルバムの入口として、本作が外へ向かうロックではなく、内側へ沈んでいく作品であることを示している。
2. Teleharmonic
「Teleharmonic」は、浮遊感のあるシンセと柔らかなリズムが印象的な楽曲である。タイトルは、遠隔のハーモニー、通信を介した音の接続を思わせる。The Smileの音楽では、テクノロジーと人間の感情がしばしば不自然に結びつくが、本曲もその例である。
音楽的には、Radioheadの『Kid A』以降の電子的な感覚を思わせるが、ここではより生演奏の揺れが残されている。Tom Skinnerのドラムは機械的ではなく、呼吸するように曲を支える。Thom Yorkeの声は、遠くから届く信号のように処理され、親密でありながら距離がある。
歌詞のテーマは、接続と断絶の両方である。遠くにいる誰かとつながろうとする一方、そのつながりは完全には成立しない。デジタル時代の親密さの不確かさが、曲全体に漂っている。
3. Read the Room
本作の中でも比較的攻撃的で、リズムの緊張感が強い楽曲である。タイトルの「Read the Room」は、その場の空気を読めという意味を持つ。現代社会における空気の読み合い、同調圧力、発言の難しさが背景にあるように聴こえる。
ギターは鋭く、不規則に動き、ドラムはロック的な勢いとジャズ的なズレを同時に持つ。曲は単純に疾走するのではなく、引っかかりながら進む。このぎこちなさが、タイトルのテーマとよく合っている。
Thom Yorkeのボーカルは、皮肉と苛立ちを含みながらも、完全な怒りにはならない。むしろ、周囲の空気に押し潰されそうな人物が、かろうじて抵抗しているように響く。本作の静かな流れの中で、鋭い角を持つ重要曲である。
4. Under Our Pillows
「Under Our Pillows」は、夢、不安、秘密、眠りの下に隠されたものを連想させるタイトルを持つ。枕の下にあるものは、眠る前に隠したもの、子ども時代の魔除け、あるいは見たくない記憶かもしれない。
楽曲は、複雑なギターの絡みと変則的なリズムによって始まり、次第に不安定な空間へ広がっていく。The Smileの特徴である、ロック、ジャズ、ミニマル・ミュージックの境界を曖昧にする手法がよく表れている。
後半に向かうにつれて、曲はより抽象的な音響へ移行する。歌としての輪郭がぼやけ、音の反復と残響が前面に出る。眠りに落ちる直前、意識がほどけていくような感覚があり、本作の中でも特にサイケデリックな質感を持つ楽曲である。
5. Friend of a Friend
「Friend of a Friend」は、本作の中でも比較的メロディが明確で、親しみやすい楽曲である。ピアノを中心にした柔らかな進行と、どこかクラシックなポップ・ソングのような美しさがある。
タイトルは「友人の友人」を意味し、直接の関係ではなく、間接的なつながりを示す。現代の人間関係、特にSNSやコミュニティの中で、誰かを知っているようで知らない感覚とも重なる。近いようで遠い関係が、曲の穏やかなメロディの中に表れる。
歌詞には、社会的な不平等や距離感への視線も感じられる。美しい曲調の裏で、誰が安全な場所にいて、誰が外側に置かれているのかという問いが浮かぶ。The Smileらしく、甘いメロディの中に苦い観察が潜んでいる。
6. I Quit
「I Quit」は、タイトル通り「もうやめる」という拒絶の言葉を持つ楽曲である。しかし、曲調は激しい決別ではなく、疲れ果てた人物が静かに手を離すような雰囲気を持つ。
音楽はスロウで、低く沈み、ストリングスや電子的な音響が淡く広がる。Thom Yorkeの声は、怒りよりも消耗を伝える。ここでの「やめる」は、反抗の勝利というより、これ以上続けられないという限界の表明である。
歌詞の意味は明確に固定されないが、関係、仕事、社会的役割、あるいは自己破壊的な習慣から離れようとする感覚がある。『Wall of Eyes』全体に漂う疲労感が、最も直接的に表れた楽曲である。
7. Bending Hectic
本作の最大のハイライトのひとつであり、The Smileの到達点とも言える長尺曲である。静かなギターと語りかけるようなボーカルから始まり、曲は徐々に不穏な方向へ進む。やがて終盤で巨大な歪みとストリングスが押し寄せ、圧倒的な崩壊へ向かう。
歌詞では、車で山道を走るような情景が描かれ、そこに破滅的な衝動が重なる。道を曲がること、重力に身を任せること、制御を失うことが、人生の比喩として機能している。曲は長い時間をかけて、静かな緊張を積み上げる。
終盤の爆発は、本作では珍しいほど暴力的である。しかし、それはロック的な爽快感ではなく、抑え込まれていたものが崩壊する瞬間である。Jonny Greenwoodのストリングスとギターの歪みが一体となり、音楽はほとんど災害のように迫る。本作の中で最もドラマティックな楽曲である。
8. You Know Me!
アルバムを締めくくる「You Know Me!」は、静かで内省的な楽曲である。タイトルは「あなたは私を知っている」という言葉だが、その響きには確信よりも不安がある。本当に自分を知っているのか、あるいは知っているつもりでいるだけなのかという疑問が含まれる。
ピアノとストリングスを中心にしたアレンジは、アルバムの終幕にふさわしい透明感を持つ。Thom Yorkeの声は非常に近く、しかしどこか遠い。長い監視と視線のアルバムが、最後に個人的な認識の問いへ戻ってくる。
本曲は大きな結論を与えない。むしろ、理解されることの不可能性、あるいはそれでも誰かに知ってほしいという願いを残す。静かな余韻の中で、アルバムは閉じられる。
総評
『Wall of Eyes』は、The Smileのセカンド・アルバムとして、前作よりもさらに成熟し、内省的で、音響的に洗練された作品である。ロック・バンドとしての勢いよりも、音の配置、沈黙、リズムのずれ、ストリングスの陰影が重視されている。聴きやすいアルバムではあるが、決して単純ではない。
本作の最大の特徴は、静けさの中にある緊張である。多くの曲は大きく爆発しない。しかし、どの曲にも不安、疲労、視線、社会的圧力、関係の不確かさが潜んでいる。タイトル曲「Wall of Eyes」から終曲「You Know Me!」まで、アルバム全体は「見られること」と「理解されないこと」をめぐる作品として聴ける。
Jonny Greenwoodの役割は非常に大きい。ギターは単なるリフ楽器ではなく、曲の構造をねじる装置として機能する。ストリングスは感動を演出するためではなく、不安や歪みを増幅するために置かれている。これは彼が映画音楽や現代音楽で培ってきた感覚が、The Smileの中で自然に活かされていることを示す。
Tom Skinnerのドラムも、本作の独自性を支えている。Radiohead的な精密さとは異なり、彼のリズムにはジャズ的な揺れと身体性がある。そのため、曲は冷たくなりすぎず、常に人間の呼吸を残している。Thom Yorkeの声は、その上で幽霊のように漂いながら、現代人の不安を断片的に歌う。
『Wall of Eyes』は、Radioheadの代替品ではない。もちろん、Thom YorkeとJonny Greenwoodがいる以上、Radioheadとの連続性は避けられない。しかしThe Smileは、より小編成で、より即興的で、より室内楽的な緊張を持つ別のプロジェクトである。本作はその個性を前作以上に明確にした。
日本のリスナーにとっては、『OK Computer』や『Kid A』のような大きな時代の声明を期待するより、『In Rainbows』や『A Moon Shaped Pool』の繊細さを好む人に強く響く作品である。派手なフックよりも、音の揺れ、声の距離、曲の崩れ方に耳を向けることで、本作の深さが見えてくる。
『Wall of Eyes』は、静かな不安のアルバムである。目に囲まれ、情報に囲まれ、人間関係に囲まれながら、それでも自分が誰なのか、誰に知られているのかを問い続ける。The Smileはここで、現代の孤独を大声で叫ぶのではなく、低い声とゆがんだ弦の響きで描き出している。非常に抑制された、しかし深い余韻を残す傑作である。
おすすめアルバム
The Smileのデビュー作。よりポストパンク的で鋭いバンド・サウンドが前面に出た作品。
– Radiohead – A Moon Shaped Pool (2016)
ストリングス、静けさ、不安、内省が強く、本作と深くつながるRadiohead後期の重要作。
– Radiohead – In Rainbows (2007)
温かい音像と複雑なリズム、親密な歌が結びついた名盤。The Smileの柔らかな側面と親和性が高い。
– Thom Yorke – Anima (2019)
電子的な不安と身体性を追求したソロ作。『Wall of Eyes』の社会的視線のテーマとも接続する。
– Jonny Greenwood – Phantom Thread Original Motion Picture Soundtrack (2018)
ストリングスによる緊張と美しさを味わえる映画音楽作品。本作の弦楽アレンジを理解するうえで重要。



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