発売日: 2024年5月3日(同時にライブアルバム『Live at Kilby Court』とリリース)
ジャンル: アンビエント、エクスペリメンタル、ローファイ、コンセプチュアル
概要
『The Phantom of the Highland Park Ebell』は、Current Joysことニック・ラスプーリ(Nick Rattigan)による2024年の最新作にして、
最も幽玄で、最も抽象的な作品である。
タイトルが示す通り、本作はロサンゼルスの歴史的なホール「Highland Park Ebell」にインスパイアされ、
まるでその空間に取り憑いた“ファントム(幻影)”が奏でる音楽のような構造を持つ。
ゴースト・ストーリー、音の残響、記憶の漂流といったモチーフが全体を支配し、
これまでのCurrent Joys作品とは一線を画す、ほぼインストゥルメンタルに近いアンビエント・サウンドスケープが展開される。
また、このアルバムは同時リリースされたライブ盤『Live at Kilby Court』と対をなす形で、
「ステージに立つ肉体(Kilby)」と「ステージを彷徨う霊(Phantom)」の二面性を提示しているとも言える。
全曲レビュー(抜粋)
1. “Curtain Rises (Opening Theme)”
古い舞台の幕がゆっくりと上がるような静かな導入。
微かなピアノとホールの残響音が重なり、これから始まる“現実でない物語”への入口を形成する。
まさに“劇場的現実”の扉が開く瞬間。
3. “The Balcony Ghost”
幽霊の視点から語られる楽曲。
シンセの揺らぎと遠くから響く女性の声(逆再生)が不気味かつ美しい。
観客席の暗がりに潜む無名の感情が音になったような一曲。
5. “Stage Dust & Memories”
タイトル通り、舞台に積もる埃と記憶の断片を思わせる構成。
不規則に鳴るギターのアルペジオと、フィールドレコーディング(椅子のきしむ音、衣擦れ)が絶妙に絡み合う。
時間の止まった劇場内で響く、“誰かがいた気配”を描いている。
7. “Waltz for the Empty Room”
三拍子のピアノがゆっくりと舞う、美しくも悲しいワルツ。
客席が空のまま、幽霊が踊るような情景が浮かぶ。
かつての歓声と、今の静けさの対比が胸を打つ。
9. “The Phantom’s Exit”
約8分に及ぶ長尺トラック。
ピアノ、環境音、電子ノイズ、断片的なコーラスが交錯し、
アルバム全体の“霊的な循環”を完結させる終章となっている。
最後の数十秒で完全に無音になる演出が、“舞台は終わった”という感覚を強烈に残す。
総評
『The Phantom of the Highland Park Ebell』は、Current Joysの音楽キャリアにおける最も実験的な領域への到達であり、
これまでの“ローファイ・エモ”や“宅録ポップ”といったスタイルを完全に脱ぎ捨てたポスト・ポップ的コンセプト・アルバムである。
この作品は音楽というよりも、“空間を聴く”ためのドキュメントであり、
同時に記憶・不在・憑依といった抽象的テーマを音で彫刻する行為でもある。
リスナーはここで、楽曲を“聴く”のではなく、感情の残響に“耳を澄ませる”体験をすることになるだろう。
『Phantom』とは、幽霊のことだけではない。
「かつてあった感情の影」「残響だけが残る愛」をも指す言葉なのだ。
おすすめアルバム(5枚)
- Grouper – A I A: Alien Observer (2011)
空間と記憶の音楽化という点で、『Phantom』と深く呼応するアンビエント作品。 - William Basinski – The Disintegration Loops (2002)
時間と音の崩壊。『Phantom』の構造的テーマと同様に“消えていく記憶”を扱う。 - Harold Budd – The Pavilion of Dreams (1978)
劇場のような残響を持った音楽。美しさと死の気配が同居。 - Julianna Barwick – Nepenthe (2013)
コーラスとアンビエントの融合。空間と情念の音響表現が重なる。 - Brian Eno – Music for Airports (1978)
環境と感情の交錯点に位置する傑作。劇場ではなく空港だが、“無名の場所”を音にしたという点で共通。
制作の裏側:記録されなかった舞台のために
ニック・ラスプーリは、この作品の制作にあたり実際にHighland Park Ebellに何度も通い、
ホール内での即興演奏や、空間ノイズの録音を重ねたという。
マイクは客席の奥、舞台裏、楽屋、照明ブースなどに設置され、
“音楽が演奏される前の劇場の音”を収集していった。
これはいわば、“上演されなかった演劇のサウンドトラック”なのである。
つまり『The Phantom of the Highland Park Ebell』とは、
存在しなかった物語を、存在しなかった登場人物のために記録するという試みなのだ。
音楽が音楽の外側へとにじみ出す瞬間が、ここには確かにある。
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