発売日: 1996年11月12日
ジャンル: トリップホップ、エクスペリメンタル、インダストリアル・ヒップホップ、ダブ
概要
『Pre-Millennium Tension』は、Trickyが1996年に発表した2作目のスタジオ・アルバムであり、「トリップホップ」の限界を破壊し、暴力的なまでに内面と向き合った“崩壊寸前の黙示録”のような作品である。
前作『Maxinquaye』でシーンの注目を一身に集めたTrickyは、その成功を裏切るかのように、よりノイジーで陰鬱、実験性に満ちた音楽世界へと突入した。
アルバムタイトルの“Pre-Millennium Tension（ミレニアム直前の緊張）”は、世紀末に向かう不安と、個人的崩壊が交差する精神状態をそのまま表している。
サウンドはヒップホップともロックとも形容しがたい、不穏で退廃的なビート、濁ったベース、アヴァンギャルドなノイズ、そして低く呟くようなTrickyのヴォーカルによって構成されており、リスナーに「快楽」ではなく「侵食」を与える異様な体験をもたらす。
共演者には再びMartina Topley-Birdを迎えつつ、アメリカのヒップホップからも影響を受けた新しいプロダクションが導入されている点も特徴的。
本作は、ポップ・アイコンとしてのTrickyを否定し、アーティストとしてのTrickyが生き延びるための選択だったとも言える。
全曲レビュー
1. Vent
重く沈み込むベースと、壊れかけたようなビートで幕を開ける。
“Vent（通気口）”は、圧力を逃す装置であると同時に、精神的な逃げ場の象徴にもなっている。
2. Christiansands
本作の中で最も“楽曲”としての輪郭がはっきりしているトラック。
ノルウェーの街名を冠したこの曲は、関係性の壊れかけた情景を描いたラブソングでありながら、どこか不穏で病的なムードを帯びている。
3. Tricky Kid
自虐と自己神話が交錯する、本人のアイデンティティをめぐる語り。
「Trickyは偽物」「Trickyは人を裏切る」など、外からの声と内なる声が混ざり合う実験的なメタ・トラック。
4. Bad Dreams
夢と悪夢の境界を曖昧にするダブ調のトラック。
Martinaのヴォーカルが呪文のように響き、現実と幻覚が反転するようなサウンドスケープを構築する。
5. Makes Me Wanna Die
儚く美しいメロディと破壊的なタイトルが対比をなす本作随一のバラード。
Martinaの抑制されたヴォーカルが、死への欲動と恋情の入り混じる心象風景を淡く描く。
6. Ghetto Youth
暴力と貧困の都市生活をテーマにした、Tricky流のアーバン・ドキュメンタリー。
サンプリングとリズムの崩し方が、カオスの中に秩序を見出そうとする試みとして機能している。
7. Sex Drive
フェティッシュで不穏なエレクトロ・トラック。
官能というよりはむしろ欲望の病理と依存を描いた一曲。
8. Bad Things
ビートもコードも“気持ち悪いほど”ミニマルで不安定。
“悪いことばかり起こる”という世界観が、呟くようなラップと共に皮膚にまとわりつく。
9. Lyrics of Fury
Eric B. & Rakimの同名曲をカバー。
そのスピードとフロウの見事さよりも、Tricky流に崩された“怒りの詩”としての再解釈が焦点。
まるで怒りそのものが音に解体されていくような構成。
10. My Evil Is Strong
ノイズとドローンが支配する、ほぼインダストリアルなトラック。
自らの“悪”を肯定的に描き、善悪の境界が崩壊する様子を音で体現する。
総評
『Pre-Millennium Tension』は、Trickyというアーティストが、自らの名声や期待と“正面から衝突する”ことを選んだアルバムである。
トリップホップというジャンルが、メディアによって定型化・商品化されつつあった時代において、彼はあえて不快で、曖昧で、破壊的な音楽を提示することで、その定型を破壊した。
この作品においては、ポップソング的な“救い”は存在しない。
代わりにあるのは、暴力と自己否定、精神の断片、そしてそれでもなお生き延びようとするリズムである。
それは音楽というより、音と感情の“戦場”に近い。
『Maxinquaye』の夢幻的な魅力を期待して聴けば、突き放されるだろう。
だが、この作品にしかない“焦土の美”は、90年代末という混沌の時代を生きた記録として、今なお圧倒的な存在感を放っている。
おすすめアルバム
- Nine Inch Nails / The Downward Spiral
自己破壊と官能を極めたインダストリアルの金字塔。 - Company Flow / Funcrusher Plus
同時代にアンダーグラウンドで起きたヒップホップの過激な進化。 - Portishead / Portishead
トリップホップの暗黒面をさらに研ぎ澄ませた異端作。 - Death Grips / The Money Store
後続世代による“暴力とノイズのポップ”という系譜。 - Scott Walker / Tilt
ポップの枠を超えた音の実験と声の極限を追求した異形の傑作。
歌詞の深読みと文化的背景
『Pre-Millennium Tension』に込められた言葉は、時にラップという形式を逸脱し、詩とも断片とも呪文ともつかぬものへと変化していく。
それはおそらく、「言葉で世界を説明すること自体がもはや信じられない」という認識のもとに書かれているからだろう。
社会的には、イギリスが保守政治と人種格差に揺れていた1990年代中盤。
トリッキーの“アーバン・ノワール”な世界観は、ブリストルという都市のリアルを、幻想をまじえて描いた新たなリアリズムとして機能している。
『Pre-Millennium Tension』は、その名の通り“破局の前夜”を音で記録した黙示録であり、Trickyという名の孤高の詩人が、誰にも届かぬ場所で鳴らした叫びなのである。
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