1. 歌詞の概要
「Mr Noah」は、Panda Bear(ノア・レノックス)の2014年リリースのEP『Mr Noah』および翌年のフルアルバム『Panda Bear Meets the Grim Reaper』に収録された、エッジの効いた先鋭的なトラックです。彼のソロキャリアにおける転換点となるこの楽曲は、夢のような音響世界と攻撃的なビート、そして謎めいた歌詞が絡み合う、音と意味の迷宮として展開されます。
タイトルの“Mr Noah”は、明言されていないものの、アーティスト自身の名前“ノア・レノックス”を自己パロディ的に反映したものとも読めます。動物を率いて大洪水から避難した旧約聖書のノアと、サウンドの洪水を操る音楽家としてのPanda Bear。両者のイメージが重なるこの曲では、現代社会における混乱や不安、そして内なる声との対峙が、サイケデリックな音像とともに描かれていきます。
2. 歌詞のバックグラウンド
「Mr Noah」は、Panda Bearがポルトガルのリスボンで家族と暮らしながら制作した楽曲のひとつであり、2011年の『Tomboy』以降、よりビート重視の方向へと舵を切ったことを示す作品です。
本作では、共同プロデューサーである**Sonic Boom(元Spacemen 3のPeter Kember)**との協業が深まり、ビート、低音、リバーブ、そしてサンプリングのレイヤーによる立体的な音像構築が行われています。
「Mr Noah」はその先鋒としてEPのタイトル曲に選ばれ、**視覚的にも聴覚的にも“重たく、怪しい、そしてどこかユーモラスな世界観”**を展開します。PVには、犬や変形した人間たちが登場し、不条理でユーモラスなグロテスクさを描きながらも、“動物性と人間性の境界”がテーマとして隠されています。
3. 歌詞の抜粋と和訳
引用元:Genius – Panda Bear / Mr Noah
“This dog got bit on a leg / He got a really big chip on a leg”
「この犬、足を噛まれたんだ/足にはでっかいチップがついてる」
“Don’t no one wanna pick it up”
「誰もそれを拾おうとしない」
“It fell down, it fell down / It fell down and now the dog’s on the ground”
「それは落ちた、落ちたんだ/今その犬は地面に伏している」
“He don’t want to, he don’t want to / He don’t want to lie about it”
「彼は望んでない、嘘をつくなんてしたくないんだ」
“Mr. Noah, Mr. Noah”
「ミスター・ノア、ミスター・ノア」
このように、歌詞は非常に断片的で寓話的。犬の存在は単なる動物の描写ではなく、社会に傷つけられた人間、無視される存在、自分自身の内面の比喩として描かれているようにも見えます。
4. 歌詞の考察
「Mr Noah」の歌詞は、明確なストーリーというよりも、不安と逸脱を象徴する断片的イメージの連なりです。犬が噛まれ、誰にも拾ってもらえず、地面に倒れている――それは社会的に排除された存在、あるいは自我が傷ついて倒れ込んだ象徴として読むことができます。
繰り返される「He don’t want to lie about it(彼はそれについて嘘をつきたくない)」というフレーズには、真実を口にする勇気と、黙ることで守られる秩序との狭間にある苦しみが込められているように感じられます。
“Mr Noah”という呼びかけも、助けを求める声、あるいは自分自身に向けた戒めとも捉えられる二重性を持ち、意味の固定を意図的に逃れようとする構造になっています。
音楽的にもこの曲は、不協和音的なリフレイン、犬のうめき声のようなサウンド、異様に沈んだベースラインなどによって、どこか居心地の悪い、だが中毒性のあるサイケデリアを形成しており、歌詞の曖昧さと不安感をより強調しています。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- “Come to Daddy” by Aphex Twin
グロテスクな映像とサウンドで人間の欲望と狂気を描いた作品。 - “Animal Collective” – “Peacebone”
日常と言語の断裂をテーマにした、ノアの原点的な感覚が残る楽曲。 - “Notget” by Björk
個人的な喪失と再構築を音の断層で描いた電子的実験作。 - “Sleep Drifter” by King Gizzard & the Lizard Wizard
夢と現実の曖昧さをミニマルなグルーヴで描いた作品。 -
“The Rip” by Portishead
不穏で透明な世界観が、「Mr Noah」の神秘性と共鳴。
6. “ノアの方舟”ではなく、“ノア自身”としての孤独と叫び
「Mr Noah」は、単なる象徴としての“ノア”ではなく、現代社会における個人としてのノア(=ノア・レノックス)の視点を込めた楽曲です。
人を救う“方舟”のような全能性ではなく、不完全な存在としての“Mr Noah”が、傷ついた犬(自分や他人)を見つめながら、どうにも救えない現実に直面する。その葛藤と皮肉が、歌詞とサウンドに満ちています。
この曲に漂う不穏さ、コミカルさ、疲労感は、近代都市におけるアイデンティティの崩壊や、“自分らしくいること”の苦しさを象徴しており、あらゆるレイヤーで意味が交錯する、多面的な作品といえるでしょう。
「Mr Noah」は、寓話的な犬のイメージと歪んだビートの中に、Panda Bear自身の内なる声と社会とのずれがにじむ、迷宮のような実験作。これは“ノアの箱舟”ではなく、“ノアという男”が今をどう生きるかを問う、不安と詩的断片のサウンドスケープである。
コメント