
発売日: 2008年3月10日
ジャンル: オルタナティヴ・ロック、アート・ポップ、アコースティック・ロック
概要
『This』は、The Motelsが2008年に発表した通算7作目のスタジオ・アルバムであり、実質的にはマーサ・デイヴィスのソロ・プロジェクトとしての色彩が濃い作品である。
1980年代の栄光と挫折を経て、長い沈黙の後に再始動した彼女が放つこのアルバムは、過去の亡霊と向き合いながらも、今を生きるための音楽として作られている。
サウンドはニュー・ウェイヴ期のシンセポップとは一線を画し、アコースティックやブルース、フォーク、時には実験的なアート・ポップの要素まで取り入れた、多彩で内省的な音作りが特徴。
派手な装飾はなく、あくまでマーサの声と言葉、そして時間の経過が中心に据えられている。
本作は、マーサ・デイヴィスの“成熟した表現者”としての面を強く打ち出しており、かつてのThe Motelsとは異なる深みと温度を持ってリスナーに語りかける。
これは「今の自分が歌うこと」を主題にした、静かなる決意のアルバムなのである。
全曲レビュー
1. Fever
スモーキーでブルージーなギターから始まる、内省的なオープニング・ナンバー。
かつての煌びやかさとは無縁の、むき出しの感情がにじむ。
「熱」とは恋の情熱というより、過去の痛みが内側から再燃するような感覚を指している。
2. Sleep
囁くようなボーカルが印象的なバラード。
眠りに落ちる直前の意識の曖昧さを描写するようなアレンジが美しく、夢と現実の境界が溶けていくような浮遊感に満ちている。
マーサの低く語りかける声が、優しさと不安を同時に抱いている。
3. Who Could Resist That Face
皮肉の効いたラヴ・ソング。
「そんな顔を見て誰が抵抗できる?」というフレーズの裏には、操られた側の憤りや哀しみが隠れている。
軽快なテンポと裏腹に、詞には不信と皮肉が張り巡らされている。
4. One Who Leaves
別れの瞬間に視点を据えた、メランコリックなナンバー。
去る者の心理を描くことで、残された者の痛みを逆説的に浮かび上がらせている。
アコースティック・ギターとピアノの音色が、静かに情景を照らす。
5. Everything
本作でもっとも情熱的なトラックのひとつ。
「全てをあなたに捧げた」と歌う歌詞は、過去の自己犠牲とその虚しさを回想するようでもある。
感情を爆発させるようなボーカルと、躍動感ある演奏が印象的。
6. Daylight
「夜が明けてしまったこと」に対する戸惑いと諦めを綴った曲。
夜の中でしか呼吸できなかった者が、朝日に晒されることで感じる不安が繊細に描かれている。
マーサのヴォーカルは、光に目を細めるような、儚くも強いトーンを帯びている。
7. Mission of Mercy (再録)
1982年『All Four One』収録曲のセルフ・カバー。
オリジナルのニュー・ウェイヴ的なエッジは削がれ、代わりに重厚でスローなテンポと感情表現が際立つ。
同じ詞でも年齢と体験によってまったく異なる意味を帯びることを証明している。
8. Sweet Destiny
人生の不可逆性と、それを受け入れる強さをテーマにしたスピリチュアルな楽曲。
「甘い運命」とは、必ずしも幸福を意味しない。
それでもその道を歩くしかないという境地が、静かな確信をもって歌われる。
9. Disco Kitten
唯一の明るいナンバーともいえる遊び心に満ちた曲。
マーサが意図的に“バカバカしさ”を演出しているようにも感じられ、アルバムの中で絶妙な脱力感を提供している。
それでも、どこか哀愁が漂ってしまうのがThe Motelsらしい。
10. The War is Over
クロージングにふさわしい、静謐なバラード。
内面的な戦いの終結を示唆しつつも、「戦争が終わったからといって、平穏が訪れるとは限らない」という現実的な余韻を残す。
聴き終えたあと、深い静けさに包まれるような余韻をもたらす名曲。
総評
『This』は、The Motelsの名を冠しているものの、実質的にはマーサ・デイヴィスという一人のアーティストが、自らの歴史と向き合い、言葉を紡いだソロ・アルバムである。
煌びやかな80年代とは対照的に、ここにあるのは年齢を重ねた表現者だけが奏でられる、研ぎ澄まされた音と言葉の世界だ。
このアルバムが提示するのは、感情を爆発させるのではなく、受け入れ、沈静化させる音楽である。
そしてそれは、人生の後半に訪れる「静かな覚悟」とも呼べるものだろう。
バンド全盛期を知るリスナーにとっては、かつての楽曲の再解釈や、マーサの成熟した歌声に驚かされるかもしれない。
一方で、The Motelsを初めて聴く人にも、この作品は声と物語が持つ力をストレートに届けてくれるはずだ。
『This』は、過去を振り返るためのアルバムではない。
むしろ、今日この瞬間をどう歌うかを問い直す、マーサ・デイヴィスの現在地を映す鏡である。
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