1. 歌詞の概要
「Ms. Lazarus(ミズ・ラザラス)」は、アメリカのオルタナティブ/スペース・ロック・バンド、HUM(ハム)が1998年にリリースしたアルバム『Downward Is Heavenward』の6曲目に収録された楽曲であり、静かに、しかし不気味なほど感情の深層へと沈み込んでいく、“死と再生”の寓話的な詩世界を持つ楽曲である。
そのタイトルにある「Ms. Lazarus」は、聖書に登場する復活者“ラザロ(Lazarus)”の女性形にあたる造語である。ラザロは死後4日を経てキリストにより蘇生された存在として知られているが、ここでは「ミズ・ラザラス」という架空の女性像を通じて、失われたものがよみがえる瞬間、もしくは死から戻ってきた何かとの対面が描かれている。
この曲は、愛、記憶、死、生、そして時間の重なりと断絶を、音像の深いリバーブと詩的断片によって抽象化し、聴き手に不穏な美しさと感情の迷宮を提示する。アルバム全体の中でも特に静謐でありながら不安を孕んだ1曲であり、HUMというバンドの“声にならない感情”の表現力を示す隠れた名作である。
2. 歌詞のバックグラウンド
『Downward Is Heavenward』はHUMにとって1990年代最後のアルバムであり、前作『You’d Prefer an Astronaut』の轟音とスケール感を継承しつつ、より内省的で密度の濃い作品へと深化した一作である。
「Ms. Lazarus」はこのアルバムのちょうど中間地点に置かれ、アルバム前半に漂っていた宇宙的な空間感と感情の希薄さが、徐々に人間的な痛みや親密さへと重力を持って引き戻されていくきっかけとなるようなトラックでもある。
この曲はその構造やメロディも含めて、“明確な意味”を提示するのではなく、夢と記憶の断片、感情の残響が浮かび上がっては消えるような詩的設計となっており、そのあいまいさゆえに、聴く者の心の奥深くに入り込んでくるのである。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下に、「Ms. Lazarus」の印象的なラインを抜粋し、英語と日本語訳を併記する(出典:Genius Lyrics):
Her long dead eyes
And your electrical smile
The faintest trace of what it was to feel
「彼女の長く死んだ瞳
そして君の電気のような微笑み
かすかに残る、かつて感じた“何か”の痕跡」
She turns to you
And mouths your name
But her voice is somewhere lost in space
「彼女は君の方を向いて
君の名前を口にする
だがその声は、宇宙のどこかに消えている」
ここで語られるのは、明らかに失われた存在との対面である。語り手は“彼女”を目にし、かつての感情の名残を辿ろうとするが、その声は届かない。“死”という比喩的、あるいは実際の断絶を挟んだ再会は、共鳴ではなく、ただのすれ違いに終わる。
このシーンは、感情が蘇る瞬間の美しさと恐怖、そして言葉にできない距離の冷たさを、静かで詩的なイメージで描き切っている。
4. 歌詞の考察
「Ms. Lazarus」は、語り手が“死んだ誰か”との再会を経験する、感情と記憶の再発見に関する幻想譚とも言える。だがその再会は、単なるノスタルジアや癒しではなく、むしろ過去に戻れないという痛烈な真実を突きつけるものである。
語り手は“彼女”に会いにいくことで何かを取り戻そうとするが、そこにあるのは“声が届かない”という隔たりである。その隔たりは、もしかすると死であり、忘却であり、愛の終わりそのものかもしれない。
「Ms. Lazarus(ラザラス夫人)」という名前もまた、生きていたものが“蘇る”ことへの恐れと、幻想への渇望を同時に内包している。まるで、蘇生したラザロが“もはや元のラザロではなかった”かのように、ここでの再会は再生ではなく、記憶の幽霊との対面なのである。
音楽的にもこの曲は、緩やかで揺れるようなリズムの上に、ぼんやりとしたボーカルと空間的ギターが重なり、夢と現実の間に漂うようなサウンドスケープを形成している。それは、リスナーに“何かが戻ってくる気配”を与えながら、その輪郭を最後まで見せないという、絶妙な精神の曖昧さを演出している。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Into Dust by Mazzy Star
美しくも壊れやすい関係の終焉を、静かに浮かび上がらせるバラード。 - She Lives by Failure
幽霊のような存在と暮らす日々の不条理を描いた、静かな不安に満ちた楽曲。 - The Rip by Portishead
電子的な装飾と有機的なヴォーカルが、感情の表面張力を震わせる幻想的サウンド。 - Angelene by PJ Harvey
名前に象徴される女性像と、それに投影される感情の危うさを歌う神話的ポートレート。 - Requiem for O.M.M. by of Montreal
過去との再会、別れ、そしてもう戻れない感情の再演を戯画的に描いた短編詩。
6. “かつてあった感情に、名を与えようとする試み”
「Ms. Lazarus」は、失われた愛、蘇らない記憶、触れることのできない温度に、詩と音で形を与えようとする試みである。
語り手は、もはや会話の成立しない“誰か”に語りかける。そしてその語りの中で、かつての愛がどういうかたちをしていたのか、どうして今はもう届かないのかを静かに、しかし確実に受け入れていく。
蘇ったラザラスが祝福されるように、“彼女”もまた祝福されていたのか? あるいは、戻ってくることで、かえって別の死を迎えたのではないか?——その答えは示されない。だがその曖昧さこそが、HUMというバンドの詩学なのだ。
「Ms. Lazarus」は、もう届かない誰かに捧げる、沈黙と残響の詩である。リスナーはそれを聴きながら、自らの記憶のなかにある“声なき誰か”を思い出すことだろう。そして、その記憶が音とともに揺れるとき、そこには一瞬だけ蘇った“何か”の気配が残るのだ。
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