1. 歌詞の概要
「Hounds of Love(ハウンズ・オブ・ラヴ)」は、Kate Bush(ケイト・ブッシュ)が1985年にリリースしたアルバム『Hounds of Love』の表題曲にして、彼女の創作的ピークを象徴するような楽曲です。表面的には恋愛について歌われているように聞こえますが、ブッシュの独自の詩的手法によって、恋愛がもたらす恐怖、不安、そしてそれに立ち向かう勇気と葛藤が、比喩と象徴で満ちた形で描かれています。
タイトルにある「hounds(猟犬)」は、追いかけてくる“愛の恐怖”の象徴です。歌詞の語り手は、新たな恋に踏み出そうとする一方で、過去のトラウマや傷、未知の感情に怯えており、その心理状態を“猟犬に追いかけられる”イメージとして具体化しています。愛という行為が人を癒すと同時に傷つける可能性を持つものであることを、ブッシュは鮮烈に描き出しています。
この曲では、恋愛はただ甘いものではなく、心の奥底を揺さぶる体験であり、理性と感情、安心と恐怖のせめぎ合いの中で起こる人間的な“逃避と接近”が、音楽と詩の両面から立体的に表現されています。
2. 歌詞のバックグラウンド
「Hounds of Love」は、ケイト・ブッシュがセルフ・プロデュースで作り上げたアルバム『Hounds of Love』のタイトル曲として、アルバム前半の象徴的役割を担っています。彼女はこのアルバムで、“ポップな側面”と“アヴァンギャルドな側面”を二部構成で展開しており、本曲は前半の“愛と現実”をテーマにしたセクションの中心に配置されています。
ブッシュはこの曲について「恋をすることは、自分自身の安全な世界を壊すような怖さがある」と語っており、心を開くことの困難さと、その先にある可能性の両方を捉えようとしたといいます。タイトルの“猟犬”というモチーフは、恐怖や不安がどこまでも追いかけてくるという感覚を視覚的に捉えたものであり、曲全体に張り詰めた緊張感をもたらしています。
また、楽曲には1957年のホラー映画『Night of the Demon』の台詞「It’s in the trees! It’s coming!(木の中だ!やつが来るぞ!)」が冒頭にサンプリングされており、その不穏な導入から一気にブッシュの作り上げた“感情の迷宮”へと聴き手を誘います。リズミカルなストリングスと躍動的なドラム、サンプリング音の組み合わせは、1980年代のポップスとして極めて斬新で、アート性と大衆性のバランスを巧みに保っています。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下に「Hounds of Love」の印象的な歌詞を抜粋し、日本語訳を添えて紹介します。
It’s in the trees! It’s coming!
(※映画『Night of the Demon』からの引用)
森の中にいる!やつが来るぞ!
It’s in the trees! It’s coming!
When I was a child
Running in the night
Afraid of what might be
森の中にいた!それがやって来る!
子どもの頃の私は
夜の中を走っていた
何かに怯えながら
The hounds of love are hunting me
愛の猟犬たちが私を追いかけてくる
I’ve always been a coward
And I don’t know what’s good for me
私はずっと臆病だった
そして、自分にとって何が良いのかも分からない
Here I go
It’s coming for me through the trees
さあ、行かなきゃ
あれが木々の間から私に迫ってくる
I need love, love, love, love, yeah!
私は“愛”を求めてるの、どうしても!
歌詞引用元: Genius – Hounds of Love
4. 歌詞の考察
「Hounds of Love」は、ケイト・ブッシュの作品の中でも特に“感情の曖昧さ”や“人間の内面の対立”が表出した楽曲です。この歌の語り手は、愛という救いを求めている一方で、それによって壊される自分自身を怖れている存在です。その心の葛藤が、「臆病」「愛が必要」「追いかけられる」という三つのキーワードに集約されています。
特に注目すべきは、“hounds(猟犬)”という比喩の使い方です。通常、愛は癒しや喜びの象徴として描かれることが多い中で、ブッシュはあえて“恐怖の存在”として描きます。それは彼女自身が語るように、愛には「コントロールを失う感覚」や「自分の世界を明け渡すことへの抵抗」が伴うからです。猟犬たちは、心の奥に隠していた傷や恐怖を嗅ぎつけ、容赦なく追ってくる感情の象徴であり、それは単なる恋愛ではなく、深い心の変化を表しています。
また、「I’ve always been a coward(私はずっと臆病だった)」というラインに続いて、「I don’t know what’s good for me(自分にとって何が良いのか分からない)」と告白する場面は、心を開こうとする葛藤と、それでも誰かに愛されたがっている繊細な心情をリアルに描き出しています。ブッシュはこの曲で、“自分の弱さを認めることこそが、愛を受け入れる最初の一歩だ”という真理を提示しているのです。
歌詞引用元: Genius – Hounds of Love
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Suspended in Gaffa by Kate Bush
得体の知れない感情と信仰への葛藤を描いた実験的な楽曲。内面のジレンマが共通する。 - Rabbit Heart (Raise It Up) by Florence + The Machine
愛や運命に飛び込むことへの恐れと喜びをテーマにしたダークで美しいポップ。 - Running Up That Hill (A Deal with God) by Kate Bush
“愛の理解”をテーマにした代表曲。追いかけられるようなビートと切実な感情が似ている。 - Breathe Me by Sia
自己破壊と再生、孤独と愛の対比を描いたバラード。繊細な恐怖と希望の共存が近い。
6. 恋は甘美な“追跡劇”——恐れとともに歩む愛の寓話
「Hounds of Love」は、Kate Bushが音楽と詩、映像、演出のすべてを駆使して、“愛の本質”を追求した傑作です。恋に落ちるという行為は、時に自分の殻を壊す行為でもあり、それは決してロマンティックなものだけではなく、“生き残りを賭けた本能の戦い”であることを、彼女は猟犬のメタファーによって描き出しました。
恋愛というテーマに、ホラー映画のサンプリングやシンフォニックなストリングス、予測不能な曲構成を織り交ぜながら、ケイト・ブッシュは“愛の裏にある恐怖”という普遍的なテーマを浮かび上がらせています。そして最終的に、彼女の語り手はその猟犬たち——つまり自分の恐れ——から逃げるのではなく、「さあ行かなきゃ」と立ち向かっていきます。そこにこそ、“恐れていても進む”という強さと、“愛を受け入れる勇気”があるのです。
「Hounds of Love」は、単なるラブソングではなく、愛という感情が人間に与える圧倒的な力と、その前で揺れる心のドラマを詩的かつ音楽的に描き切った、ケイト・ブッシュという表現者の核心に迫る作品です。愛の猟犬たちに追われながらも、それでも前に進もうとする者たちへ——この曲は、そんなすべての人のために響き続けます。
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