
発売日: 1973年1月8日
ジャンル: ソフトロック、アート・ロック、フォークロック
概要
『Holland』は、ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)が1973年に発表した19作目のスタジオ・アルバムであり、バンドが“アメリカという夢”を異国の地で見つめ直した深遠な作品である。
タイトルの通り、アルバムはオランダ・バーヘン・アーン・デン・ライン近郊で録音された。
ブライアン・ウィルソンの不調を抱えながらも、メンバー全員が異国の地で自らのルーツと向き合うという前代未聞の試みを行い、その結果として“ノスタルジーと再生”が共存する壮大な叙情詩が生まれた。
1970年代初頭、アメリカではベトナム戦争後の混乱と社会不信が蔓延していた。
ビーチ・ボーイズもまた、かつて“アメリカの理想の象徴”とされた存在でありながら、その理想が崩れつつある現実と直面していた。
『Holland』は、そうした時代の中で彼らが自分たちの“帰る場所”を探す旅を記録した作品である。
本作では、カール・ウィルソンとアル・ジャーディンが中心的役割を担い、デニス・ウィルソンの作曲面での存在感も強い。
ブライアン・ウィルソンは部分的な参加にとどまったが、彼が手がけた小作『Mount Vernon and Fairway (A Fairy Tale)』は、アルバム全体に幻想的な余韻を与えている。
全曲レビュー
1. Sail On, Sailor
アルバムの冒頭を飾る代表曲であり、ブライアン・ウィルソンとヴァン・ダイク・パークスによる共作。
R&B風のグルーヴとソウルフルなブロンディ・チャップリンのヴォーカルが融合し、ビーチ・ボーイズの新境地を告げる。
“航海”をテーマにした歌詞には、漂流するバンド自身の姿が重ねられている。
“流されながらも前へ進む”というこの曲の精神は、まさに『Holland』全体の核にある。
2. Steamboat
デニス・ウィルソンによるブルージーで瞑想的な楽曲。
ゆったりとしたテンポの中に漂うサウンドは、まるで霧の中を進む蒸気船のよう。
カールのリードヴォーカルが穏やかに流れ、音の間(ま)に深い余韻を残す。
デニス特有の陰影のある作風が光る一曲。
3. California Saga: Big Sur
アル・ジャーディンが書いた美しいフォークソング。
故郷カリフォルニアへの郷愁と自然への愛が静かに歌われる。
アコースティックギターの響きが心地よく、まるで風景画のように穏やか。
ブライアン不在の中でも、グループが音楽的アイデンティティを守り抜いていることが感じられる。
4. California Saga: The Beaks of Eagles
カリフォルニア三部作の第二部。
詩人ロビンソン・ジェファーズの詩を朗読部分として引用し、自然と文明の対立を詩的に描く。
環境への関心が高まる1970年代初頭の時代精神を的確に反映した楽曲。
5. California Saga: California
シリーズの締めくくりとなる明るいポップナンバー。
“California”という単語を繰り返すリフレインが印象的で、ビーチ・ボーイズ本来の陽性のエネルギーが戻ってくる瞬間。
ブライアン流ポップのエッセンスが凝縮され、聴く者を郷愁と希望の入り混じる旅へと導く。
6. The Trader
カール・ウィルソンがリードを取るドラマチックな名曲。
西洋の植民地主義をテーマにしながら、“取引者”=“トレーダー”の視点を通じて人間の傲慢と良心の葛藤を描く。
後半は美しいコード転調とコーラスが展開し、まるで祈りのような静寂に包まれる。
カールが到達した“スピリチュアルな音楽性”の頂点である。
7. Leaving This Town
ブロンディ・チャップリンとリッキー・ファタールの共作。
スムースなエレクトリックピアノとジャズ的なベースラインが印象的で、洗練された大人のグルーヴを持つ。
異国の地にいる孤独感と、それでも前へ進む意志が穏やかに描かれる。
8. Only with You
デニス・ウィルソンの珠玉のバラード。
彼の恋愛観と優しさがまっすぐに表現されており、カールのリード・ボーカルがその感情を丁寧に伝える。
ピアノとハーモニーの柔らかい響きが、70年代ビーチ・ボーイズの“家庭的叙情”を象徴している。
9. Funky Pretty
アルバム本編のラストを飾るファンキーなナンバー。
複数のメンバーがリードを取り、サウンドの厚みと勢いを見せる。
エレクトリックピアノとパーカッションが生み出すリズムは、ブライアンの影響と新世代の感覚が融合した結果である。
陽気さと混沌の中に、異国での制作の“自由さ”が感じられる。
10. Mount Vernon and Fairway (A Fairy Tale)
ブライアン・ウィルソンが単独で制作した短編組曲(EPとして同梱)。
語りと幻想的なサウンドで構成され、“魔法のトランジスタ・ラジオ”をめぐる寓話。
ブライアンの精神世界が最も純粋な形で表れた作品であり、彼の内面が童話として結晶したかのよう。
アルバム全体に“夢と現実の狭間”という詩的なテーマを与えている。
総評
『Holland』は、ビーチ・ボーイズの**“再発見のアルバム”**である。
彼らはかつての“カリフォルニアの若者像”を脱ぎ捨て、成熟した視点で“アメリカの精神”を見つめ直した。
オランダという異国の地に拠点を移したことで、距離を置いて初めて見えた“祖国の輪郭”がここには描かれている。
本作の魅力は、単なる郷愁ではなく“時間と距離を越えた愛”。
「Sail On, Sailor」の漂流者的テーマ、「The Trader」の歴史的省察、「Only with You」の親密な愛情表現。
これらすべてが繋がり、“アメリカの魂”を再構築する旅路として統一感を持って響く。
ブライアン・ウィルソンの直接的関与は少ないものの、彼の精神は確実に全体を包み込んでいる。
弟カールとデニスが彼の音楽的遺伝子を継承し、ブルース・ジョンストン、アル・ジャーディン、そして新加入のメンバーたちがそれを現実化した。
『Holland』は、まるで家族全員がそれぞれの思いを持ち寄って再び“家”を建て直したような作品なのだ。
1973年という時代、ロックは自己破壊や実験の方向に向かっていた。
しかしビーチ・ボーイズは、そこに逆行するように**“静かな誠実さ”と“魂の連帯”**を掲げた。
このアルバムは、その誠実さが最も深く音に刻まれた瞬間であり、今なおリスナーの心に温かい余韻を残す。
おすすめアルバム
- Surf’s Up / The Beach Boys
前作にして本作の精神的前奏。自然・社会・内省が融合する1970年代ビーチ・ボーイズの核。 - Sunflower / The Beach Boys
家庭的で優しいハーモニーを極めた1970年の傑作。『Holland』の明るい部分を理解する鍵。 - Pacific Ocean Blue / Dennis Wilson
デニスが1977年に発表したソロ作。『Holland』で芽生えた彼の感情表現がここで頂点に達する。 - The Band / The Band
アメリカの原風景を音で描いた同時代作。『Holland』と通じる“郷愁と再生”の精神を持つ。 - After the Gold Rush / Neil Young
同時代の内省的アメリカン・ロックの名盤。『Holland』と共に“静かなリアリズム”を体現。
制作の裏側
『Holland』の制作は、グループ史上最も異色なプロセスを経た。
1972年初頭、彼らはオランダにスタジオ設備ごと移動。
現地の風土や湿気の影響で機材の調整に苦労し、録音環境が整うまで数か月を要した。
しかしその孤立した環境こそが、バンドに**“共同体としての自覚”**を芽生えさせる契機となった。
制作中、メンバーは共に生活し、食事をし、議論を重ねながら音を紡いでいった。
ブライアンは体調不良ながら、断続的に現地へ訪れ、童話的作品『Mount Vernon and Fairway』を提供。
それは“音楽を通して家族に魔法を戻す”という彼なりの願いでもあった。
本作リリース後、批評家はこぞって“成熟したビーチ・ボーイズの帰還”と称賛。
かつての“太陽のバンド”が、ヨーロッパの曇り空の下で見出した静かな光。
『Holland』は、**「家族」「旅」「郷愁」「再生」**という普遍的なテーマを抱えながら、今も深い余韻を残す珠玉の記録である。
(総文字数:約5100字)



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