1. 歌詞の概要
「Hell Is Round the Corner」は、Trickyが1995年に発表したデビュー・アルバム『Maxinquaye』に収録された楽曲であり、そのタイトルが示す通り、この世界に潜む不穏さや暴力、アイデンティティの分裂を詩的に、そして挑発的に描いた代表曲である。トリッキーがMassive Attackの一員として音楽活動をスタートさせたのち、自らの精神の闇や社会との葛藤をストレートかつ抽象的な表現で刻み込んだこの曲は、90年代中盤のトリップホップ・シーンの象徴ともなった。
本楽曲の中核には、混血、階級、家族、記憶といったTricky自身のパーソナルな問題が折り重なっている。タイトルの「地獄はすぐそこにある（Hell is round the corner）」というフレーズは、単なる比喩ではなく、彼が育ってきた環境そのものを示している。痛みや疑念は内省的な囁きとなり、ビートの隙間に染みわたる。リスナーはそこで物語を聞くのではなく、感覚として“トリッキーという存在”を体験することになる。
また、この楽曲ではIsaac Hayesの「Ike’s Rap II」をサンプリングしており、そのスモーキーなサウンドのうねりが全体のムードを支配している。似たサンプリングを使ったPortisheadの「Glory Box」と比較されることも多いが、Trickyはより攻撃的かつパーソナルに仕上げており、そこには逃げ場のない精神的な閉塞と危うさが濃密に漂っている。
2. 歌詞のバックグラウンド
「Hell Is Round the Corner」は、Trickyにとって“自分とは何か”を言葉にすることを試みた自己解剖的な作品である。彼の母親は精神疾患を抱え、彼が4歳のときに自ら命を絶っている。また、ブリストルの労働者階級に生まれ育ったTrickyは、常に社会の片隅に位置するアイデンティティの持ち主であった。そうした“アウトサイダー性”が、この曲のすべてのラインに染み込んでいる。
この曲では、ただの社会批判ではなく、“自分自身が社会の病理そのものである”というような、自己と外界の境界が曖昧になるような言葉の運びが見られる。Trickyのラップはささやくようでいて切実であり、詩的でありながら荒々しい。しかも一貫してリスナーとの距離を保とうとせず、むしろ“自分の中の地獄”をそのままさらけ出してくる。
アルバムタイトル『Maxinquaye』は、亡き母Maxineとその精神的な帰還（quaye）を重ねた造語ともされており、「Hell Is Round the Corner」は母の不在、そして自身の内面の混沌と向き合う装置のような役割を果たしている。
3. 歌詞の抜粋と和訳
Hell is round the corner where I shelter
地獄はすぐそこ、俺の隠れ家のすぐそばにあるIsm’s and schisms, we’re living helter skelter
主義と分裂、俺たちは混乱の中で生きている
この冒頭だけでも、楽曲全体が抱える“社会的・精神的崩壊”のモチーフが明示されている。「shelter（避難所）」という言葉が、本来安息を意味するはずなのに、“地獄”と隣接しているという構図は、居場所のなさや安心の喪失を象徴する。
Intimidation
威圧Cause this nation’s abomination
なぜならこの国自体が、忌まわしい存在だからだ
イギリスという国家、あるいは現代社会の構造に対する批判がここには込められている。個人が感じる社会的圧力や疎外感が、Trickyにとっては“国家レベルの忌まわしさ”として捉えられている。
I’m a product of my environment
俺は、この環境が生み出した産物だ
これはTrickyの自己定義であり、育った町、家族構成、暴力的な文化、制度の不備——それらすべてが自分を構成していると語る。自己責任ではなく、社会との連続性の中で形成された“破片”のようなアイデンティティ。
※歌詞引用元：Genius – Hell Is Round the Corner Lyrics
4. 歌詞の考察
「Hell Is Round the Corner」は、Trickyが自分の存在そのものを音楽で剥き出しにしたようなトラックであり、聴く者にとっては“音楽というより経験”といえる作品である。この楽曲における“地獄”は、抽象的な比喩ではなく、暴力、貧困、階級差別、精神的不安、そして過去のトラウマなどが重層的に折り重なった現実の断片である。
Trickyのささやくようなラップには、怒りも痛みも諦めも込められている。しかしそれらは決して一つの感情に収束せず、混濁したまま流れていく。意味が確定されないまま漂うその言葉たちは、リスナー自身の“社会との距離感”を映し出す鏡のようにも感じられる。
また、Isaac Hayesのサンプルは、ソウルという“魂の音楽”をトリップホップ的に再解釈したものであり、ブラック・ミュージックの系譜に対するTrickyなりの敬意と皮肉が込められているようにも読める。過去を引用しながらも、過去に居場所を見出せない——そのパラドックスがこの楽曲には息づいている。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Glory Box by Portishead
似たサンプルとテーマを扱う女性視点のトリップホップ名曲。 - Strangers by Tricky feat. Martina Topley-Bird
疎外感と肉体性が交差する、ダークで中毒性の高い一曲。 - Black Steel by Tricky
Public Enemyの曲を女性ボーカルでリメイクし、政治的怒りを再構成した実験的トラック。 - Angel by Massive Attack
静かな恐怖と官能が混在する、ブリストル・サウンドの金字塔。 -
No Good by The Prodigy
社会の不適応者としての自己像を、レイヴとトリップホップの融合で描いた反逆の音楽。
6. 地獄が“すぐそば”にあるというリアル
「Hell Is Round the Corner」は、1990年代の都市文化が抱えていた“見えない圧力”や“語られない痛み”を、そのまま音にしてしまったような楽曲である。Trickyは語り手であると同時に被写体でもあり、自らの精神のひび割れや怒り、葛藤を隠すことなく表現している。
この曲に共鳴する者は、Trickyの育った世界とは違う場所にいるかもしれない。しかし、“自分の居場所がいつ崩壊するか分からない”という不安は、誰の心にも潜んでいる。だからこそこの曲は、時代や国境を越えて響くのだ。
地獄は遠くにはない。すぐそこにある。そのリアルさを突きつけることで、Trickyは私たちに「どう生きるのか？」という問いを投げかけている。決して答えは出ないが、その問いを音楽で共有することこそが、彼の存在意義そのものなのだろう。
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