
発売日: 1975年11月
ジャンル: アートロック、エクスペリメンタル・ロック、グラムロック、ポストパンクの萌芽
美の象徴が“災厄の女神”へ変わるとき——John Caleが描く混沌と情念のアルバム
『Helen of Troy』は、John CaleがIsland Records在籍時に発表した3枚目のアルバムであり、
その内容は、暴力的な衝動と詩的なロマンティシズムがむき出しでぶつかり合う、きわめて生々しい一作である。
このアルバムは、Caleの知らぬ間にレーベル側が未完成のままリリースしてしまったという背景を持ち、
“不完全なまま世に出された”作品ならではの荒削りさと緊張感が、逆に強烈な迫力を生んでいる。
タイトルの「Helen of Troy(トロイのヘレン)」とは、ギリシャ神話に登場する絶世の美女。
だがCaleはこの名を借りて、欲望、裏切り、戦争、死といった“美の裏側”の世界を音楽で描こうとする。
その試みは、結果的に彼の最もダークで、最も激しいアルバムへと結実した。
全曲レビュー
1. My Maria
柔らかく始まるが、どこか翳りを帯びたコード進行と不穏なアレンジ。
“マリア”という名が象徴するものは宗教的救済か、破滅的な愛か。
冒頭からアルバム全体の緊張を予感させる。
2. Helen of Troy
タイトル曲にして、このアルバムの精神的中心。
ファズギターと重たいリズムが“愛の女神”の影に潜む戦争と破滅を描く。
この曲におけるCaleのボーカルは、怒りと詩情が入り混じった絶妙なバランスで放たれる。
3. China Sea
荒れたビートに乗せた、エキゾチックで幻想的なサウンド。
“中国の海”を舞台にした旅の記憶とも、幻想ともとれる曖昧な世界観が広がる。
退廃とアジア的モチーフの融合がユニーク。
4. Engine
ミッドテンポで進行するロック・ナンバー。
“機関(エンジン)”というタイトルが示すように、身体や都市、社会の構造を暗喩するような詩が展開される。
5. Save Us
静かな祈りのようなイントロから、徐々にテンションを高める構成。
“私たちを救ってくれ”という叫びが、逆説的に“救済不可能な状況”を浮かび上がらせる。
Caleの宗教的テーマへの傾倒が感じられる1曲。
6. Cable Hogue
映画『ケーブル・ホーグのバラード』からの引用を含む、カントリー調の皮肉なポップソング。
明るい曲調の裏で、時代に取り残された男の孤独と滑稽さが浮かび上がる。
7. I Keep a Close Watch
後に再録されるCale屈指の名バラード。
淡々としたピアノの反復と抑制されたボーカルの中に、強烈な執着と愛の狂気が宿る。
まさに“コントロールされた崩壊”というべき名演である。
8. Pablo Picasso(The Modern Loversカバー)
Jonathan Richman作のナンバーをCale流に再構築。
原曲のシンプルさを維持しつつ、ギターの音圧と毒気が増し、“アート”と“男性性”をめぐる皮肉がより強調されている。
9. Leaving It Up to You
Caleのキャリアで最も衝撃的な1曲のひとつ。
激しいギターと突き刺さるようなリリック。
一時期、歌詞中に登場するシャロン・テート(チャールズ・マンソン事件の被害者)への言及が問題視され、リリース版から削除された経緯もある。
怒り、暴力、無力感、すべてが3分半に凝縮された、破壊的なカタルシス。
10. Baby What You Want Me to Do
Jimmy Reedのブルースをアグレッシブにカバー。
本来のブルース的ゆるさを剥ぎ取り、粗暴でパンク的なアプローチで再構築。
この曲に象徴されるように、Caleは過去の形式を解体し、新たな“歌”のあり方を模索している。
総評
『Helen of Troy』は、John Caleの美学と狂気が最も剥き出しになったアルバムである。
完成度という意味では荒削りな部分も多いが、それゆえに本作には“演出されていない真実”のような生々しさがある。
ここには愛もある。暴力もある。文学もある。叫びもある。
だがそれらは決して整頓されず、むしろ互いを打ち壊し合いながら、聴き手に“感情”という原石を叩きつけてくる。
“ヘレン・オブ・トロイ”というタイトルに込められた皮肉、
それは、美や神話すらも破壊しなければ進めなかった、ひとりの表現者の孤独な戦いなのだ。
おすすめアルバム
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Lou Reed – Street Hassle
Caleと同様、詩と暴力、性と破滅を描いた同時代の“都市のラプソディ”。 -
Patti Smith – Radio Ethiopia
荒々しく、知的で、純粋に燃えるような感性の爆発。 -
The Modern Lovers – The Modern Lovers
“Pablo Picasso”原曲収録。Caleプロデュースによる元祖パンク/アートロックの原点。 -
David Bowie – Diamond Dogs
ディストピア的幻想とグラムロックの融合。Caleの世界とも通底する虚構美。 -
John Cale – Music for a New Society
数年後、静けさと絶望の中に突入する“対極の美学”。本作との落差がCaleの振れ幅を証明する。
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