発売日: 2014年4月
ジャンル: サンバ、MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)、パゴージ、サンバ・カンサォン
概要
『Coração a Batucar』は、マリア・ヒタが2014年に発表した5作目のスタジオ・アルバムであり、「鼓動する心」というタイトル通り、サンバの躍動感と感情の揺らぎが共存する、熱くも繊細な一作である。
前作『Elo』では静謐なバラードと内面世界を描いたマリアだったが、本作では再び“サンバのリズム”へと歩み寄り、ブラジル都市部のストリート的な生命力と、洗練されたアレンジによる都会的なセンスが融合。
プロデュースは、彼女のライヴ・バンドを中心に据えた一体感ある布陣で構成され、アルバム全体がひとつの“輪になって踊る場”のように響く。
特筆すべきは、マリア自身の発語・語り口の変化である。
ここでは、**彼女の声が単に「歌う」のではなく、「語る」「問いかける」「叫ぶ」**といった複数のモードで展開され、歌がより肉体的で、かつ社会的な存在として響いてくる。
全曲レビュー
1. Meu Samba, Sim Senhor(作詞作曲:Fred Camacho, Leandro Fab)
「これが私のサンバだ」と高らかに宣言する力強いオープニング。
パーカッションとコーラスが生き生きと交錯し、祝祭の始まりを告げる。
2. Coração a Batucar(作詞作曲:Davi Moraes, Arlindo Cruz)
タイトル曲。
“鼓動する心”という比喩が、愛とリズム、人生のリズムを重ねる。
跳ねるようなリズムに対し、マリアの声はしなやかに流れる。
3. Rumo ao Infinito(作詞作曲:Fred Camacho, Leandro Fab)
恋の陶酔感を“無限への旅路”になぞらえたロマンティックなサンバ。
コーラスとユニゾンの美しさが光る。
4. Abre o Peito e Chora(作詞作曲:Almirzinho Serra)
“胸を開いて泣け”というタイトルが示す通り、感情の解放をテーマにした名唱。
ここでは、声の艶と切実さが同時に響く。
5. No Meio do Salão(作詞作曲:Xande de Pilares)
サンバ・ダンスフロアを舞台にした賑やかな一曲。
マリアの軽やかなフレージングが、バンド全体のグルーヴと完全に一体化している。
6. Sim Senhor(インタールード)
“はい、先生”と繰り返す短いリフレイン的トラック。
前曲からの流れを受け、次曲への“掛け声”として機能する。
7. Maltratar Não É Direito(作詞作曲:Xande de Pilares, Gilson Bernini)
“傷つけることは権利ではない”という強いメッセージ。
女性の視点からの自己肯定が、淡々としたリズムと相まって静かな迫力を生む。
8. Vai Meu Samba(作詞作曲:Fred Camacho)
自分のサンバに語らせるというメタ視点的な構成。
“サンバが人生を語る”というテーマが、まるで語り手が踊っているように響く。
9. No Mistério do Samba(作詞作曲:Arlindo Cruz)
サンバの神秘と内面性に触れた静かな一曲。
祝祭的なアルバムの中で、陰影と余白を提供する重要な位置付け。
10. Fogo no Paiol(作詞作曲:Fred Camacho, Marcelinho Moreira)
“火薬庫に火がついた”という情熱的なタイトル通り、クライマックスに向けた爆発力あるサンバ。
パーカッションがリズムを煽り、マリアの歌声も自然と熱を帯びる。
11. Main Title: Meu Samba Sim Senhor (Reprise)
冒頭曲の再演。
コーラスが強調され、まるで“観客と一緒に輪になっている”ような終演感がある。
総評
『Coração a Batucar』は、マリア・ヒタのサンビスタとしての側面がもっとも明瞭に、もっとも生き生きと表現されたアルバムであり、“歌う”という行為が“生きることそのもの”として響く作品である。
アルバム全体は、一人の女性がサンバという言語を通じて、自らの感情・体験・立場を語るドキュメントのように構成されている。
決して技巧をひけらかすわけではなく、むしろマリアは**「歌を通じて場をつくる」**ことに意識を集中させており、聴き手はその場に自然と巻き込まれていく。
また、本作は単なる“サンバ回帰”ではなく、MPB的な詩情と都市的洗練、そしてフェミニズム的な自己肯定感が音楽の中に有機的に溶け込んでいる点でも、現代的な意義を持つ。
「Maltratar Não É Direito」や「Abre o Peito e Chora」では、痛みや差別に対する抵抗と癒しが、祝祭の音の中で力強く共有されている。
『Coração a Batucar』は、“鼓動のように鳴るサンバ”であり、“呼吸する音楽”であり、マリア・ヒタが今を生きる声で描く、最も身体的な詩集なのである。
おすすめアルバム(5枚)
- Mart’nália『Mart’nália』
女性サンビスタの代表格。リズムと社会的メッセージのバランスがマリアと近い。 - Beth Carvalho『Nos Botequins da Vida』
都市型サンバのルーツとも言える名盤。『Coração a Batucar』の原点がここにある。 - Arlindo Cruz『Sambista Perfeito』
本作にも参加したサンバ作曲家による秀作。作風と精神性の両方で共鳴。 - Roberta Sá『Delírio』
都会的サンバを女性目線で再解釈。マリア・ヒタとの並列的存在。 -
Marisa Monte『Universo ao Meu Redor』
ボサとサンバの橋渡し的傑作。構成美と表現力において、共通する深みを持つ。
歌詞の深読みと文化的背景
『Coração a Batucar』の多くの楽曲は、“日常を生きる人々のリズム”をテーマにしており、サンバという形式を借りながら、ブラジル都市社会におけるアイデンティティ、尊厳、つながりを描き出している。
「Maltratar Não É Direito」では、女性の権利と尊厳を、「Meu Samba, Sim Senhor」では音楽と自我の一致を、「Vai Meu Samba」では、声なき声の代弁としてのサンバの力を示す。
サンバは本来、“労働者階級の表現”であり、“街の声”であるが、本作ではそれが**現代都市における精神のリズム=“鼓動”**として再構成されている。
『Coração a Batucar』は、サンバを伝統ではなく“現在の鼓動”として鳴らす――その挑戦の結晶である。
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