
1. 歌詞の概要
「Cath…(キャス…)」は、Death Cab for Cutie(デス・キャブ・フォー・キューティー)が2008年にリリースしたアルバム『Narrow Stairs』に収録された楽曲であり、同作からの2ndシングルとして発表された。
この曲で描かれているのは、結婚式の日を迎えながら、心の奥底では違う未来を望んでいた女性「キャス」の物語。語り手は彼女の姿を遠くから見つめ、その内面に潜む迷いや後悔、そして「もう戻れない時間」に対する静かな絶望をすくい取っていく。
歌詞は全体として三人称で語られるが、そこには明らかに語り手自身の投影や共鳴が滲んでおり、「他人の話に見せかけた、かつての恋や選択の追憶」としても読むことができる。
つまりこの曲は、“誰かを描きながら、結局は自分自身の物語に戻ってくる”という、Death Cab特有の反射的で詩的な構造を持っているのだ。
「Cath…」という呼びかけに続く「…」の省略記号が示すのは、言葉にできない感情、あるいは“間に合わなかった愛”そのものなのかもしれない。
2. 歌詞のバックグラウンド
アルバム『Narrow Stairs』は、Death Cab for Cutieにとって最もダークで内省的な作品とも言われる。前作『Plans』で得た商業的成功と認知度を受けて、彼らはより実験的かつ深層心理的なアプローチへと踏み込んだ。
「Cath…」の歌詞には、アメリカ文学の古典『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)からのインスピレーションも見られ、現実の結婚相手ではなく、本当に愛した人を選べなかった女性の葛藤がテーマとなっている。
実際、歌詞には「本当は彼のことを愛していなかった」というラインがあり、形式や世間体に従って人生を選んでしまったことへの後悔が滲んでいる。
ミュージックビデオでも、キャスの結婚式と過去の恋人の姿が交差しながら描かれ、曲の背後にあるドラマが視覚的にも補完されている。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下に、「Cath…」の印象的なフレーズを抜粋し、和訳とともに紹介する。
Cath, she stands
キャスは立っているWith a well-intentioned man
良識ある男のそばでBut she can’t relax
だけど、どこか落ち着かないWith his hand on the small of her back
彼の手が背中に触れているのにAnd as the flash bulbs burst
フラッシュの光が弾けるなかShe holds a smile like someone would hold
その笑顔はまるで──A crying child
泣いている子供をあやすようなもの
出典:Genius – Death Cab for Cutie “Cath…”
4. 歌詞の考察
「Cath…」の歌詞は、非常に映画的で視覚的である。
結婚式という祝祭的な場面のなかで、主人公が見せるぎこちない笑顔、控えめなボディランゲージ、それらが**“幸せなはずの瞬間に存在する不協和音”**を鋭く浮き彫りにしていく。
語り手はその違和感を見逃さない。「彼女は本当はこの男を愛していない」「本当の愛は別の誰かにあった」──その確信は、言葉にされるより先に、情景から立ち上ってくる。
「笑顔は、泣いている子をあやすようなもの」──この比喩は特に強烈で、喜びの演技が悲しみの緩和の手段になっていることを示している。キャスは、自分の心に嘘をつくことでしか、この場に立っていられない。
この楽曲には、選ばなかった人生へのノスタルジアと、選んでしまった人生への諦念が同時に存在しており、聞き手にも「自分ならどうしただろう?」という問いを残してくる。
語り手が誰なのかは明示されていないが、かつてキャスを愛していた人物、あるいは今も愛している人物なのかもしれない。
※歌詞引用元:Genius
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Title and Registration by Death Cab for Cutie
記憶と現実のずれを描いた、繊細で心理的な楽曲。静かに心をえぐるバラード。 - You Could Be Happy by Snow Patrol
別れた恋人が幸せであることを願いながら、心が置いてけぼりになる哀しみを描いた一曲。 - Lua by Bright Eyes
曖昧な夜と感情の浮き沈みを、囁くように歌った現代的なフォークソング。 - Love Vigilantes by New Order
幸福の中にある違和感、あるいは幸せが手遅れであることへの痛みを描いた名曲。 - The Night We Met by Lord Huron
もう戻れない過去への郷愁と、選び損ねた時間への祈りのようなラブソング。
6. あのとき、あの人を選んでいれば──沈黙のなかの“もうひとつの人生”
「Cath…」は、幸福の定型に従って生きることが、必ずしも心の平穏をもたらすわけではないことを、静かに、しかし力強く訴えている。
この曲が描いているのは、祝福されながらも心ここにあらずの花嫁であり、彼女を遠くから見つめる語り手の**“語られなかった愛”**である。
この曲は問いかける──
「本当にほしかったものを、手に入れられなかったのは誰だったのか?」
それはキャスか? 語り手か? それとも私たち全員か?
人生には、選びとらなかった選択肢がいくつもある。
そしてそのひとつひとつに、小さな“キャス”がいる。
彼女は笑っている。けれど、その笑顔は──まるで泣いている子どもをあやすようなものなのだ。
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