発売日: 2000年5月16日
ジャンル: オルタナティヴ・ロック、アートロック、エクスペリメンタル、ポスト・グランジ
『Binaural』は、Pearl Jam が2000年に発表した6作目のアルバムである。
『Yield』（1998）で開放感と統一感を取り戻したバンドは、ここで再び
“内省と実験”の領域へと深く沈み込む。
タイトルの Binaural は“バイノーラル録音”から来ている。
人間の聴覚に近い立体音響を収めるための特殊マイクを用いた録音手法で、
本作ではこの音響アプローチがサウンドの核心となる。
空間が広がる曲、ざらついた質感のノイズ、
耳のすぐそばで鳴るような囁き声——
Pearl Jam は“音の距離感”そのものを作品のテーマに据えたのだ。
制作の背景には、
ドラムが Jack Irons から Matt Cameron（ex. Soundgarden）に交代したこと、
90年代を駆け抜けた疲労と喪失、
そしてバンドが“流行”や“グランジ像”から完全に自立しようとする姿勢がある。
結果として本作は、Pearl Jam のカタログの中でも
もっとも陰影が深く、もっとも複雑で、もっとも誤解されてきたアルバム
となった。
全曲レビュー
1曲目：Breakerfall
勢いのあるオープニング。
R.E.M.を思わせるギタージャンプと軽快なリズム。
アルバムの中では明るい側に属する曲で、入り口としての機能が強い。
2曲目：Gods’ Dice
ジャズ的なビートが特徴的。
Matt Cameron の技術力が全面に現れた一曲で、
リズムの“ねじれ”がバイノーラル録音でより際立つ。
3曲目：Evacuation
ジャンクで荒々しいロックナンバー。
緊張と焦燥がミックスされ、終末的なエネルギーが漂う。
4曲目：Light Years
本作の精神的中心。
バンドの友人の死をきっかけに作られた美しい追悼曲。
広がりのある空間演出と、エディの柔らかい歌が胸を打つ。
5曲目：Nothing as It Seems
ベースの Jeff Ament が書いた、深淵のような名曲。
重く沈むギター、霧のような音像、サイケデリックな緊張感。
本作の“暗い核”を象徴している。
6曲目：Thin Air
優しいアコースティックで、グッと心を和らげる。
エディの穏やかな歌声が沁みるラブソング。
7曲目：Insignificance
エディがニュースメディア批判を込めた曲。
荒いギターと暴れるリズムが鋭く、
歌詞の怒りと音が完全に一致している。
8曲目：Of the Girl
ブルースの影を含む、幻想的でミニマルな一曲。
夜の湿度のような雰囲気がバイノーラル録音と非常に相性が良い。
9曲目：Grievance
政治的怒りを爆発させるパンク的な曲。
2000年前後の社会空気を切り取った重要作。
10曲目：Rival
異様な緊張感。
不協和音を多用しつつ、バンドのアンサンブルが鋭くまとまる。
11曲目：Sleight of Hand
人生の“すり替え”をテーマにした寓話的な曲。
浮遊するコード進行が静かに心を浸していく。
12曲目：Soon Forget
ウクレレ一本の短い小品。
富と虚栄を皮肉った歌詞がエディらしい。
13曲目：Parting Ways
壮大なストリングスが加わるエンディング。
Pearl Jam の“別れ”と“再生”が重なるような、深い余韻を残す。
総評
『Binaural』は、Pearl Jam のキャリアにおいて
もっとも深く、もっとも静かで、もっとも孤独なアルバムと言える。
特徴を整理すると、
- バイノーラル録音による立体的な音響の探求
- Matt Cameron 加入によるリズムの刷新
- メロディよりも“雰囲気”と“空気の濃度”を重視した作風
- 光と闇のコントラストが強い構成
- 過渡期のバンドが抱える混乱と内省がそのまま刻まれた作品
先行の『Yield』が開放と調和を象徴するのに対し、
『Binaural』はその反動のように内向し、
陰影と精神性が圧倒的に深まっている。
同時代のレコードと比較すると、
・Radiohead『Kid A』前夜の空気
・Smashing Pumpkins『Adore』の暗い実験性
・Soundgarden 後期の陰鬱さ
などと通じるムードを帯びている。
当時は商業的に控えめで、戸惑ったリスナーも多かったが、
20年以上経った今、
“中期Pearl Jamの最高傑作” と評価する声も少なくない。
音響的な挑戦と精神的深さを兼ね備えた、唯一無二の作品だ。
おすすめアルバム（5枚）
- Yield / Pearl Jam
『Binaural』の前段階となる“開放作”。対比が面白い。 - Riot Act / Pearl Jam (2002)
さらに深く暗い精神世界へ進む中期の連続性。 - Vitalogy / Pearl Jam
混乱と創造のルーツがわかる。 - Smashing Pumpkins / Adore
ロックの“暗い静けさ”という文脈で相性が高い。 - Radiohead / Amnesiac
実験性×静寂のバランスを共有する一枚。
制作の裏側（任意セクション）
『Binaural』制作時、バンドは長時間ツアーの疲弊、
メンバーのプライベート問題、
音楽的方向性の再考など、
複数の重圧を同時に抱えていた。
特に Jack Irons 脱退は大きな転機で、
その後加入した Matt Cameron が
複雑で柔軟なリズムを持ち込んだことで、
バンドの音が“静かだが深い”方向へ変化した。
また、ステレオ録音ではなくバイノーラルを選んだのは、
「もっと人間的で、もっと近い音を聴かせたい」
というバンドの意図によるもの。
ヘッドホンで聴くと、
本作がいかに“空気の密度”を重視したかがよくわかる。
Pearl Jam の変化と試行錯誤が最も濃密に刻まれた作品――
それが『Binaural』である。
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