発売日: 1982年
ジャンル: ポストパンク、ニューウェイヴ、アート・ロック
概要
『Benefactor』は、サンフランシスコ出身のポストパンク・バンド、Romeo Voidが1982年に発表した2作目のスタジオ・アルバムであり、彼らの鋭利な芸術性とメジャー性のあわいにある音楽的バランス感覚が最もよく現れた作品である。
前作『It’s a Condition』が冷淡でミニマルなポストパンクの美学を徹底していたのに対し、本作ではよりリズミカルでダンサブルなアプローチが導入され、バンドとしての表現領域が大きく広がっている。
なかでも「Never Say Never」は、Romeo Void最大のヒット曲であり、セックス、支配、欲望、都市生活の冷笑的美学を凝縮したアメリカン・ニューウェイヴの金字塔である。
この曲をはじめ、本作全体には“女性の身体性をめぐる攻防”と、“自己主張としての沈黙”が強く流れており、Debora Iyallの語る言葉は、単なるポップソングのリリックを超えた“現代詩”としての力を持つ。
プロデューサーにはIan Taylorを起用し、音の輪郭はより明確に、ギターはクリアに、そしてBenjamin Bossiのサックスは前作以上にフロントへと押し出されている。
パンク/ニューウェイヴというスタイルの“次”を模索した、野心と洗練のあいだにある一作である。
全曲レビュー
1. Never Say Never
Romeo Void最大の代表曲にして、アメリカン・ニューウェイヴ史上に残る名曲。
「I might like you better if we slept together(寝たらもっと好きになるかもね)」という挑発的なラインは、女性主体の欲望と皮肉を突きつける伝説的な一節。
鋭利なギターとサックスの絡みが、不穏なエロティシズムを可視化する。
2. Flashflood
急激な感情の高まりや混乱を“鉄砲水”に喩えたパワフルなトラック。
Iyallの語りはスピードを増し、パーカッションも暴力的なほど激しい。
リリックは抽象的ながら、感情の輪郭を鋭く浮かび上がらせる。
3. Undercover Kept
“覆い隠された欲望”や、“隠されることの権力性”をテーマにした知的なナンバー。
リズムはタイトで、サックスが細かく緊張感を刺し込む。
社会的規範に対する隠喩としての身体性を描いている。
4. Wrap It Up
もともとはIsaac Hayes & David PorterによるR&Bクラシックのカバー。
Romeo Voidはこの曲を冷ややかな語りと緊張感のある演奏で完全に再構築し、“欲望の機械化”として提示する。
情熱ではなく、あえて“即物的”にすることで新たな価値を生んでいる。
5. Ventilation
息継ぎ、通気、風通し――“Ventilation”というテーマは、閉塞した状況下での心理的解放を象徴する。
ギターとサックスが交互に空間を切り開いていくような演奏が印象的。
曲の構成も実験的で、終盤にはほとんどフリージャズ的展開も。
6. Chopped and Changed
変わり続けるもの、切り刻まれるアイデンティティをテーマにした不穏な曲。
ギターは反復と断片の間を行き来し、Iyallのヴォーカルも切り込むような語り口。
“自己を所有すること”の難しさがにじむ。
7. Orange
タイトル通り色彩が持つ記号性と感情の関係を扱ったアート的ナンバー。
ビートは淡く、サックスが主導権を握ることで、旋律ではなく“質感”で曲が展開していく。
言葉ではなく音の触覚で“橙色”を描いたような作品。
8. Shake the Hands of Time
アルバムの終盤にして、最も内省的で詩的な一曲。
“時間と握手する”という不思議な比喩が、“過去との和解”や“老い”のテーマへと展開される。
メロディの抑制と語りの間に、深い知性と哀しみが滲む。
総評
『Benefactor』は、Romeo Voidというバンドが自己表現と音楽形式の可能性を最大限に拡張した瞬間を記録した、極めて完成度の高いアルバムである。
『It’s a Condition』にあったポストパンクの冷徹さと実験精神はそのままに、今作ではメロディと構成により明確な焦点が与えられ、リスナーに届く“ポップの形”を獲得している。
それでも彼らは、売れることを目的としたわけではない。
「決して言うな(Never Say Never)」というフレーズに込められたのは、自らの感覚を信じること、自分の身体と対話することの重要性であり、それは80年代を通じて最も先鋭的だったメッセージの一つである。
Romeo Voidは、感情を煽ることなく、冷たく静かに“怒り”と“知性”を携えたまま、音の上を歩いた。
その美学は、まさにこの『Benefactor』というアルバムにおいて頂点を迎えたのだ。
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