発売日: 2022年9月9日
ジャンル: インディー・ポップ、オルタナティヴ・ロック、エレクトロ・フォーク、シンガーソングライター
概要
『NUT』は、KTタンズタル(KT Tunstall)が2022年にリリースした7作目のスタジオ・アルバムであり、
魂・身体・精神の三部作「SOUL(KIN)」「BODY(WAX)」「MIND(NUT)」を完結させる、内省と再構築のアルバムである。
“ナッツ(NUT)”というユニークなタイトルは、イギリス英語で“脳”や“頭”を意味するスラングであり、
本作ではKT自身が心、記憶、思考、そして精神的アイデンティティと向き合うプロセスが音楽として綴られている。
前作『WAX』ではフィジカルで力強いサウンドが展開されたが、
『NUT』はより電子的で静か、そしてサウンド面でも繊細なレイヤーを持つエレクトロ・フォーク/アートポップ的作品となっている。
コロナ禍以降の社会的空白、加齢、自己再定義という背景も反映されており、
まさに「今、心の中で鳴っている音」をそのまま音像にしたようなパーソナルな旅である。
全曲レビュー
1. Out of Touch
アルバムのオープニングは、“触れられないこと”“疎外される感覚”をテーマにしたミッドテンポのエレクトロ・チューン。
サウンドは繊細ながらも感情は鋭く、心の距離と孤独を可視化する。
2. I Am the Pilot
自分の人生の操縦桿を取り戻すというメッセージを、空と飛行機のメタファーで描いた解放の歌。
低めのボーカルとドライヴ感あるリズムが心地よい。
3. Three
数字の“3”に込められた意味――バランス、三位一体、選択肢――を抽象的に描く哲学的トラック。
過去・現在・未来の自分と向き合う静かな実験作。
4. Dear Shadow
“影”に語りかけるという、潜在意識との対話を描いた繊細なフォーク・ソング。
アコースティック・ギターと淡いエレクトロが美しく融合。
5. Private Eyes
内面を監視する“プライベートな目”――自己批判や記憶の残像を描写するアートポップ的楽曲。
反復的なビートが、思考のループ感を巧みに表現している。
6. Canyons
心の内側に空いた深い峡谷=“感情の空白地帯”をモチーフにしたミディアムバラード。
広がるコーラスと低音のサウンドデザインが、内面の孤独と広さを増幅させる。
7. Synapse
神経伝達物質の比喩で、人とのつながりと断絶を生物学的に捉えたユニークなナンバー。
エレクトロニクスの粒子感が、まるで神経を通る電気信号のように響く。
8. Demigod
“半神”というタイトルが示す通り、不完全な自分を認めたうえでの力と不安定さの共存がテーマ。
自信と脆さを同時に抱える現代的ヒーロー像を描いている。
9. All the Time
繰り返されるフレーズが、“思考の渦”を象徴するような一曲。
ループ構造の中で、“ずっと何かを考え続けてしまう”という心の習性が浮き彫りになる。
10. What I Do
自分の行動が自分を定義する――そんな自己認識の変化を歌うフィナーレ。
アルバムを通じて積み重ねてきた思索と、再び歩き出す足音が聞こえるような希望の余韻で締めくくられる。
総評
『NUT』は、KT Tunstallの“三部作”の最終章にふさわしく、頭と心を静かにめぐる旅の記録である。
『KIN』が魂(SOUL)を再点火し、『WAX』が肉体(BODY)の実感を掘り下げたならば、
本作はその魂と身体をどう“統合していくか”を思索する“精神(MIND)”の旅であり、
それは単なる内省ではなく、“自己を再定義し直すこと”の音楽的実験なのだ。
サウンド的にはこれまでになくアンビエントで静かだが、
その分、“言葉の濃度”と“声のニュアンス”がダイレクトに響く構成になっており、
KTの“語る力”が、より繊細に、そして深く伝わってくる。
このアルバムを聴くという行為自体が、“思考と感情を言語化する”という瞑想的な体験となる。
そしてその静けさの中にこそ、KT Tunstallというアーティストの本質――変わること、問い続けること、歩き続けることが宿っている。
おすすめアルバム(5枚)
- Bat for Lashes『The Bride』
象徴的で内面的な旅を描くコンセプチュアル・アルバム。 - Agnes Obel『Citizen of Glass』
透明感ある声とピアノ、電子音の融合による自己探求の美学。 - Imogen Heap『Speak for Yourself』
実験的エレクトロニカと感情の表現が両立する女性SSW作品。 - Björk『Vespertine』
内面世界と親密さを、微細なサウンドとともに描く孤高の作品。 - Fenne Lily『Breach』
心の奥の微細な感情をすくいあげるフォーク×エレクトロの現代的表現。
歌詞の深読みと文化的背景
『NUT』のリリックは、KT自身の“脳と心”にまつわる探求を通して、リスナーに“自分の思考”と向き合う機会を与えてくれる。
“影(Dear Shadow)”“シナプス(Synapse)”“峡谷(Canyons)”といったイメージは、自己の内部にある風景やプロセスを可視化するための象徴であり、
その言葉たちは、心理学や神経科学、哲学の文脈とも接続可能な深度を持つ。
また、三部作の締めくくりとして、このアルバムは女性アーティストが歳を重ねながら音楽的にどう成熟していくかという問いにも、静かに答えている。
KTは“自分のキャリアを説明する必要のないフェーズ”に入り、音楽をより純粋な内的探求の手段として再構築しているのだ。
『NUT』は、耳で聴くだけでなく、心の奥で“考え、感じる”アルバムである。
それはつまり、KT Tunstallという人間が、“自分自身を、今もなお創り続けている”という証なのだ。
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