
発売日: 2007年6月27日(日本限定)
ジャンル: ジャズ・ポップ、アコースティック・ラウンジ、ボサノヴァ、イージーリスニング
概要
『Kiss in the Air』は、シンガポール出身の歌手オリビア・オンが2007年に日本で発表したスタジオ・アルバムであり、**“恋と記憶の香りが風に乗って漂うような一枚”**として、彼女の“空気感を纏った歌声”の美学をさらに洗練させた作品である。
前作『Touch in the Sky』で確立したウィスパー・ヴォイスとラウンジ・ボサのスタイルを継承しつつ、本作ではよりノスタルジックかつ、センチメンタルな選曲とアレンジが際立ち、“記憶の中の恋”をテーマに据えたような感傷的な仕上がりとなっている。
タイトルの「Kiss in the Air」が象徴するのは、目に見えないが確かに残る“感情の痕跡”。
そしてそれは、オリビア・オンというアーティストの存在そのものと重なり合う――声を張らずに、聴き手の心にふわりと届く音楽がここにある。
全曲レビュー
1. Make It with You(Bread カバー)
70年代ソフトロックの名曲を、優しいアコースティック・ボッサにアレンジ。
“あなたとなら、どんな未来も築ける”という控えめな希望が、ささやくような歌声に込められている。
2. Kiss in the Air(オリジナル)
アルバムタイトル曲。
淡い恋の残り香を描いたミディアム・ナンバーで、「届かないキス」こそが記憶を永遠にするという逆説的な美しさが光る。
3. Just Don’t Want to Be Lonely(The Main Ingredient カバー)
ディスコ・ソウルの原曲を、ゆるやかなラウンジ・リズムに置き換えた洒脱なカバー。
“ひとりになりたくない”という願いが、声の余韻に滲む。
4. I’ll Never Fall in Love Again(Burt Bacharach カバー)
失恋を茶化すような原曲を、オリビアはあえてセンチメンタルに解釈。
声ににじむ“本気で恋を恐れる気持ち”がリアルに響く。
5. L-O-V-E(Nat King Cole カバー)
ジャジーな軽快さを残しつつ、シンプルなギターとスキャットで構成されたナンバー。
軽やかに歌いながら、どこか“恋の教科書を読むような”距離感がある。
6. The Girl from Ipanema(アントニオ・カルロス・ジョビン)
定番中の定番。
英語詞のみのカバーで、ギターのリズムにゆらめくような声が重なり、“見つめるけれど、触れられない”恋の距離感を浮かび上がらせる。
7. Sometimes When We Touch(リメイク)
過去作からの再演だが、微細にアレンジが変えられ、より落ち着いた雰囲気に。
“触れたくても触れられない感情”というテーマは、アルバム全体と強く呼応。
8. Do You Hear the Love?(オリジナル)
ささやき声で問いかけるようなラブソング。
恋人同士の間に沈黙が流れる瞬間を描き、**“音にならない愛の気配”**に焦点を当てている。
9. All Out of Love(Air Supply カバー)
大仰な原曲を極限まで抑制してカバー。
“愛が尽きた後の静けさ”を、涙ではなく呼吸で描くようなアプローチが新鮮。
10. Sometimes Love Just Ain’t Enough(リメイク)
かつてのデュエット曲を再びソロで。
愛だけではうまくいかないという真理を、静かな歌い口で提示する最終曲にふさわしい深み。
総評
『Kiss in the Air』は、オリビア・オンのディスコグラフィーの中でも特に“記憶と感情の余白”を意識的に掘り下げた作品であり、“声の濃度”ではなく“音の軽さと空気の質”で勝負した異色のラウンジ・アルバムである。
彼女の歌声は、いつも“ささやき”のようだが、本作ではさらにその特徴が磨かれ、まるで**“誰かの肩にふと置かれた手”のようなやさしさと儚さを獲得している。
どの曲も、語りかけるようでいて、決してリスナーに深く踏み込まず、“そっと横に座る”ような距離感で寄り添ってくる。**
また、選曲の妙も際立っており、“過去のポップスやソウルの記憶”を、現代のボサノヴァ・ラウンジとして翻訳し直すセンスは抜群。
懐かしさと現代性、リラックスと寂しさ、肯定と未練――それらがすべて風に混ざったキスのように、ふわりと残る。
『Kiss in the Air』は、**“思い出にそっと名前をつけるための音楽”**なのだ。
おすすめアルバム(5枚)
- Olivia Ong『Touch in the Sky』
本作の前作であり、“夢見るまなざし”がより素直に描かれた姉妹作的存在。 - Lisa Ono『Questa Bossa Mia』
日本発のボサノヴァ解釈。カフェ・ミュージックとしての完成度が高く、オリビアの空気感と共鳴。 - Emi Fujita『Camomile Plus』
繊細なウィスパーボイスとカバー中心の構成で、癒し系リスナーに広く愛される作品。 - Norah Jones『Day Breaks』
静かな感情と都会的リズムの融合。ジャズとラウンジのバランス感覚が似る。 - Corrinne May『Crooked Lines』
シンガポール出身の女性SSW。内省的なラブソングを中心に据えた語り口がオリビアと重なる。
歌詞の深読みと文化的背景
『Kiss in the Air』における“キス”は、実際の接吻というよりも、“残された気配”や“過去に置き去られた感情”の象徴として描かれている。
「Kiss in the Air」や「Do You Hear the Love?」では、言葉にならない想いや、消えていった関係の名残を、あえて明示しないまま空気のように歌に漂わせる手法が取られている。
それは、まさにアジア的な“余白の美学”であり、欧米ポップスの情熱的な表現とは対照的に、“語られないものの力”を信じるアプローチと言える。
また、カバー曲たちも、原曲の感情や構造を壊さず、しかし視点を“語り手から聴き手へ”と移すような翻訳がなされており、文化の再文脈化という点でも興味深い。
『Kiss in the Air』は、風のなかに漂うキスのように、はっきりとは見えないけれど確かに心に触れる音楽であり、
聴くたびに新しい余韻が胸に残る、**“大人のためのラブソング集”**なのである。
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