発売日: 2010年6月29日
ジャンル: インディーロック、ポストパンク、ダンスロック
概要
『Expo 86』は、カナダのインディーロック・バンドWolf Paradeが2010年に発表した3枚目のスタジオ・アルバムであり、彼らの混沌としたエネルギーを“バンドのグルーヴ”へと昇華させた作品である。
タイトルの“Expo 86”は、1986年にバンクーバーで開催された国際博覧会(通称:エキスポ86)を指し、メンバーの記憶や郷愁、そして80年代文化への皮肉と愛情が複雑に織り込まれている。
その意味では、かつての未来像として描かれた博覧会のテーマが、今やノスタルジアと失望を帯びた空想として響くように、本作にも“過去の未来”をめぐる感覚が強く漂っている。
音楽的には、前作『At Mount Zoomer』の複雑で知的な構成から一転し、よりライブ感とドライヴ感を重視したサウンドに仕上がっている。
BoecknerとKrugのソングライティングは依然として異なるベクトルを持ちながらも、本作ではリズム隊との連動性が高まり、反復的なグルーヴの中で両者の個性がうまく絡み合っている。
全曲レビュー
1. Cloud Shadow on the Mountain
Krugによる、重厚なイントロと浮遊感あるシンセが印象的なオープニング。
“山にかかる雲の影”というタイトルは、動と静、光と陰の移ろいを象徴する。
ポストパンク的なベースラインと不穏な展開が、アルバムの緊張感を高めている。
2. Palm Road
Boecknerが主導するストレートなギターロック。
“掌の道”という比喩的なタイトルが意味するのは、運命や選択の可視化かもしれない。
疾走感の中に漂う哀愁が、彼ららしい。
3. What Did My Lover Say? (It Always Had to Go This Way)
Krugの名曲のひとつ。
テンポの速い8ビートの中に詩的なフレーズが飛び交い、「恋人はなんと言ったか? それはいつもこうなる運命だった」という悲哀が滲む。
反復の多いメロディが強迫観念のように迫ってくる。
4. Little Golden Age
Boecknerのリードによる、ポップかつ高揚感に満ちた楽曲。
“黄金時代”というタイトルには、過去への郷愁とその空虚さが織り込まれている。
コーラスでのギターとリズムの躍動が、Wolf Paradeのダンスロック的側面を押し出す。
5. In the Direction of the Moon
Krug主導のメロディアスでダークな一曲。
月という象徴が導くのは、希望なのか狂気なのか。
不安定なコード進行と奇妙な展開が、夜の静けさと心のざわめきを呼び起こす。
6. Ghost Pressure
シンセのリフが印象的なダンス・ロックトラックで、アルバム中でもっともキャッチーな楽曲。
“幽霊のような圧力”という不可視の重圧をテーマに、現代人の不安や焦燥を音で表現する。
ビートの強さとクールな歌詞のコントラストが心地よい。
7. Pobody’s Nerfect
タイトルは“誰も完璧じゃない(Nobody’s Perfect)”の皮肉な誤植。
Boecknerが歌うこの曲は、失敗や誤解を笑い飛ばすようなロックナンバー。
反復するコードと即興的な演奏が、ライブ感を強調している。
8. Two Men in New Tuxedos
Krugらしい幻想的で不条理な楽曲。
“新しいタキシードを着た2人の男”という謎めいたモチーフが、夢と現実、演技と真実の曖昧さを象徴する。
楽曲構成も実験的で、途中でリズムやテンポが大きく揺らぐ。
9. Oh You, Old Thing
Boecknerによるシンプルでストレートな楽曲。
タイトルの“お前、古いやつだな”という台詞が、愛着や軽蔑、再生を含んだ多義的な響きを持つ。
彼のボーカルの粗さがむしろ温かく聴こえる。
10. Yulia
アルバムの感情的クライマックス。
冷戦時代のロシアを思わせる設定の中で、“ユリア”という名の女性との別れを描いたロマンティックで哀しいラブソング。
Boecknerのボーカルが痛切で、メロディの美しさと詞の切なさが高く調和している。
11. Cave-O-Sapien
クロージングを飾るKrug主導の大曲で、ディスコビートとポストパンクの融合が印象的。
“洞窟のサピエンス”という進化論的な皮肉に満ちたタイトルは、人類の退行を逆説的に描く。
カオスな終盤がアルバム全体を総括するような迫力を持つ。

総評
『Expo 86』は、Wolf Paradeが複雑な構成と哲学的なテーマを一旦脇に置き、バンドの“身体性”と“リズム”にフォーカスした作品である。
スタジオ録音でありながら、まるでライブ・セッションのような即興性や生々しさがあり、荒削りな美学と高い演奏力がぶつかり合っている。
Boecknerのギターはよりエッジを増し、Krugのキーボードはサイケデリックかつ構造的。
リズム隊のグルーヴもタイトで、各パートが交差する瞬間にだけ立ち上がる独特の高揚感が本作の醍醐味だ。
“博覧会”という名のアルバムは、懐かしくも不穏で、過去に向かうようでいて、どこにも行き着かない“移動”の音楽でもある。
彼らのなかではもっとも踊れるが、もっとも虚無感を漂わせたアルバムかもしれない。
おすすめアルバム
- Hot Chip / Made in the Dark
ダンスとインディーを融合したサウンドの先駆け的存在。『Ghost Pressure』に通じる美学。 - LCD Soundsystem / Sound of Silver
反復と構築、身体性と内省のバランスが共鳴する。 - Franz Ferdinand / Tonight
グルーヴィでダンサブルなロックと、都市的な哀愁が『Expo 86』と響き合う。 - Future Islands / In Evening Air
エレクトロとポストパンクのハイブリッド感が近似。 - Sunset Rubdown / Dragonslayer
Krugのもう一つの顔。実験性と抒情性が本作にも滲む。
ビジュアルとアートワーク
『Expo 86』のジャケットは、白地に象のイラストが描かれたシンプルかつ象徴的なデザイン。
この“象”は記憶と過去の象徴であり、また巨大で忘れ去られた展示物のようでもある。
博覧会が過ぎ去ったあとの虚無、そしてそれでもなお残される“重み”が視覚的に示唆されている。
また、ブックレットの中にはバンドメンバーが子どもの頃にエキスポ会場を訪れた写真もあり、個人的記憶と社会的記憶が交差するテーマ性をさらに補強している。
この視覚的な“展示”が、アルバムの音楽と見事に連動している点は見逃せない。
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