発売日: 1987年10月
ジャンル: ブルー・アイド・ソウル、アダルト・コンテンポラリー、ポップ
概要
『Alphabet City』は、ABCが1987年に発表した通算4作目のスタジオ・アルバムであり、デビュー作『The Lexicon of Love』以来となるソウルフルな美学への回帰を図った作品である。
前作『How to Be a… Zillionaire!』で極彩色のエレクトロ・ポップを展開した彼らは、その過剰な視覚演出と人工的サウンドを経て、本作ではより洗練された大人の音楽としての“ソウル”へと方向転換した。
タイトルの「Alphabet City」は、ニューヨークのロウアー・イースト・サイドに位置する実在の地区に由来する。
アルバム全体には、都会的な洗練と同時に、危うさや人間関係の陰影といったニューヨークのリアリズムが漂っている。
マーティン・フライはこの時期、ホジキンリンパ腫の治療を受けており、闘病を経た経験が歌詞や音楽にも静かな深みをもたらしている。
プロデュースは、ABC自身とバーナード・エドワーズ(Chicのベーシスト)が共同で担当。
エドワーズの手によって、滑らかでグルーヴ感のあるベースラインとクリーンなファンクが全体に通底しており、80年代後期のアーバン・ポップスとしての完成度が高い。
前作までに比べて売上的にも復調し、イギリスではシングル「When Smokey Sings」がヒット。
この曲はソウル・レジェンド、スモーキー・ロビンソンへのオマージュとしても知られており、アルバムの方向性を象徴する一曲でもある。
全曲レビュー
1. Avenue A
インストゥルメンタルで始まるこの導入曲は、ニューヨークのストリートを思わせる都会的な空気を演出する。
スムーズなホーンとキーボードが、アルバム全体のムードを静かに提示する。
2. When Smokey Sings
スモーキー・ロビンソンに捧げられた本作の代表曲。
ABCらしい言葉遊びとともに、クラシック・ソウルの敬意とポップの融合が見事に決まったナンバーである。
「When Smokey sings, I hear violins…」というリリックは、音楽の感情的力をロマンティックに語っている。
3. The Night You Murdered Love
愛を「殺す」という強い表現で恋の終わりを描いた、緊張感のあるミディアム・テンポの楽曲。
サンプリングとスクラッチを効果的に使い、ストリート・カルチャーと洗練されたサウンドが交錯する。
4. Think Again
失恋と反省をテーマにしたナンバー。
リフレインされる“Think again”が内省的なトーンを強調し、冷静さの中にほのかな感情の揺れを感じさせる。
5. Rage and Then Regret
怒りと後悔という対極的な感情を扱う複雑な構成。
ソウル・バラードとファンクの狭間を揺れるアレンジが印象的で、マーティン・フライのヴォーカルにも深みがある。
6. Ark-Angel
天使とアーク(契約の箱)を掛け合わせた象徴的タイトルが示すように、宗教的・神秘的なイメージが漂う曲。
リリックには抽象性があり、90年代的ポップ哲学を先取りするような構成になっている。
7. King Without a Crown
王でありながら王冠を持たない—権威と虚無、成功と孤独を対比させた一曲。
バーナード・エドワーズの影響を感じさせるベースラインが冴え渡る。
8. Bad Blood
人間関係の「悪い血」、つまり長年の対立や信頼の崩壊をテーマにした、冷たさと熱さが共存するソウル・ポップ。
メロディは親しみやすいが、歌詞には皮肉と痛みが込められている。
9. Jealous Lover
嫉妬という人間的な感情を中心に据えたナンバー。
シンセの音使いがややレトロで、70年代ソウルのオマージュが感じられる。
10. One Day
穏やかなリズムと抑制されたヴォーカルが印象的なバラード。
「いつかすべてがうまくいく日が来る」という希望をささやくような、祈りのような楽曲である。
11. Avenue Z
冒頭の「Avenue A」と対になるインストゥルメンタル。
アルファベット・シティというテーマを象徴的に閉じるエンディングとなっている。
総評
『Alphabet City』は、ABCにとって“成熟”と“回復”を同時に体現したアルバムである。
音楽的には初期の『The Lexicon of Love』を思わせるソウル志向に立ち返りながらも、病を克服したマーティン・フライの内面が色濃く反映されており、単なる回顧ではなく、自己再生の物語として位置づけられる。
この作品のトーンは一貫して落ち着いており、過剰な装飾を排して感情のニュアンスに寄り添ったアレンジが多い。
それは、80年代中盤の時代の空気—すなわちバブルの華やかさと、その裏にある空虚さ—に、冷静かつ優雅に応答しているかのようでもある。
また、“Alphabet City”という舞台設定を通じて、アルバム全体がひとつの街のサウンドトラックのような構造を持っている点も興味深い。
インストゥルメンタルの「Avenue A」「Avenue Z」で物語が始まり、閉じられる構成は、コンセプチュアルな手触りを与えている。
全体として、ABCが再び自分たちらしい音楽性と表現力を取り戻した重要作であり、ポップスとソウルの間に立つ高品質な“アダルト・ポップ”の名盤と言ってよいだろう。
おすすめアルバム(5枚)
- Simply Red – Men and Women (1987)
同時期に成熟したソウル・ポップを展開していた代表的グループ。 - Spandau Ballet – Through the Barricades (1986)
ニュー・ロマンティックからソウル志向への変遷という文脈で共通点がある。 - Sade – Promise (1985)
都会的でスムーズな音像と情感のあるボーカルは、ABCの本作と相性が良い。 - Prefab Sprout – From Langley Park to Memphis (1988)
知的で繊細なポップスという点で、ABCの成熟期と並べて聴きたい作品。 -
Hall & Oates – Big Bam Boom (1984)
ブルー・アイド・ソウルの本家として、ABCに先駆けた影響が色濃く出ている。
歌詞の深読みと文化的背景
『Alphabet City』の歌詞には、80年代後半という時代の“変わり目”が強く反映されている。
経済的な成功、名声、愛、喪失、そして都市生活における孤独——それらがスタイリッシュな言葉で語られながらも、どこか内省的で湿り気のあるトーンに貫かれている。
“When Smokey Sings”が示すように、ABCは音楽の歴史やソウルの伝統に敬意を払いながら、そこに自らの痛みや人生経験を重ねている。
また、“The Night You Murdered Love”や“Bad Blood”といった曲では、人間関係の脆さや感情の摩耗がテーマとなっており、虚構ではないリアルな情動が表現されている。
“King Without a Crown”のような楽曲には、表面的な成功の裏にある空虚や喪失感が漂い、80年代カルチャーに対するABCなりの冷静な視線がうかがえる。
『Alphabet City』は、過去のロマンティックな理想を再解釈しつつ、都市の現実に寄り添うような、成熟したポップ・アルバムなのだ。
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