
発売日: 2019年10月25日(EP)
ジャンル: ポストパンク、アートロック、ローファイ、スポークンワード
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概要
『Boundary Road Snacks and Drinks』は、Dry Cleaningが『Sweet Princess』に続いて2019年に発表した2枚目のEPであり、ロンドン南部の実在する家庭スタジオ=Boundary Roadで録音された、より親密で実験的なドキュメントである。
バンドが初期に築いた“スポークンワード × ポストパンク”のフォーマットはそのままに、今作ではよりパーソナルで家庭的、そして日常の雑音が混じるような音像が際立っている。
そのタイトル通り、“スナック”や“飲み物”といった些細な語彙が、人生の断片や社会への違和感と結びつく構造も見逃せない。
演奏はさらにミニマルに、フローレンス・ショウの語りはより無造作に——
だがその無造作の中にこそ、Dry Cleaningの“語ることで何も説明しない”という美学が凝縮されている。
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全曲レビュー
1. Dog Proposal
冒頭から鋭く刻まれるギターと、ショウの淡々とした語りが交差する。結婚を“犬の提案”に喩えることで、親密さの奇妙さと制度の滑稽さを浮き彫りにする。
2. Tony Speaks!
架空の中年男性“トニー”のモノローグという形式。ニュース、食事、家族、そして政治的不安定さが混在し、テレビと現実が混ざるような断片の連続がシュール。
3. Viking Hair
印象的な反復リフとともに、「ヴァイキングの髪」なる謎の語彙が主題となる。自己と身体、文化的記号のズレをユーモラスかつ不気味に表現。
4. Spoils
ベースとドラムのグルーヴが支配するダークナンバー。詩的というより“日記的”な語り口が、不安定な日常を断片的に提示していく。
5. Jam After School
ノスタルジーと苛立ちが交錯する不協和ポップ。放課後のジャムという柔らかい言葉が、どこか空虚に響く。ギターの反復がじわじわと情緒を侵食する。
6. Sit Down Meal
最終曲にして本作のハイライト。夕食という静かなシーンの中に、社会的圧力、家族の違和感、個人の孤独が織り込まれる。まるで舞台劇のような構成と間が印象的。
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総評
『Boundary Road Snacks and Drinks』は、Dry Cleaningが自らの音楽的文法を深化させた一作であり、ノイズでもなくメロディでもない“語りと構造”で物語を紡ぐ方法論が本格的に確立された作品である。
とくに際立っているのは、「家庭」という親密な場で録音されたことによる、生活感とアートの奇妙な融合であり、それが本作全体に漂う不安とユーモアのブレンドを生み出している。
Dry Cleaningの音楽は、決して熱狂を求めない。
むしろその反対——感情がこぼれる寸前の“平坦な声”の中にこそ、最も鋭いリアリズムが宿るのだ。
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おすすめアルバム(5枚)
- The Raincoats『Odyshape』
フェミニズムと即興性、家庭と音楽の曖昧な境界を描くポストパンク古典。 - Lung Dart『As I Lay Drying』
家庭環境をサンプリングに変えた、生活音の音楽的再構築。 - Jenny Hval『The Practice of Love』
身体性と語り、ポスト構造主義的リリックが響き合う実験作。 - The Slits『Cut』
脱構築された女性像とリズム感覚がDry Cleaningと通じる。 - Broadcast『Tender Buttons』
スポークン的ボーカルとミニマルな電子音の緊張感が共鳴。
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歌詞の深読みと文化的背景
本作の語りは、「日常語彙と記憶、公共性と私語のクロスフェード」によって成立している。
たとえば“Tony”や“Sit Down Meal”に見られるように、Dry Cleaningは既存の生活習慣やジェンダー構造、会話形式を“そのまま”提示することで、その不気味さを露呈させていく。
フローレンス・ショウは、何かを訴えるわけではない。
だが、語ることで“語らないこと”が浮き彫りになるという逆説の中で、リスナーは自ら意味を再構築せざるをえない。
それがDry Cleaningというバンドの、最も挑発的で、最も知的な魅力なのである。
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