発売日: 2014年(録音:2011年)
ジャンル: デザート・ブルース、トゥアレグ・ポップ、エクスペリメンタル・ロック、ローファイ
概要
『Anar』は、Mdou Moctarがスマートフォン録音とカセット配布というDIY精神の極致で制作した、きわめて個人的で革新的な作品である。
録音は2011年頃にニジェールで行われ、現地でのBluetooth共有やSIMカードによる交換を通じて広まった“携帯電話アルバム”として知られる。
アルバムタイトルの「Anar(愛)」は、サハラの若者たちの恋や憧れ、疎外感や祈りといった感情を象徴しており、全編タマシェク語の歌詞によってその想いが丁寧に紡がれている。
本作では、後のライブ主体のアグレッシブな演奏とは異なり、ドラムマシンやシンセベースを交えたローファイな打ち込みサウンドと、ディレイの効いたエレキギター、エフェクト付きボーカルというユニークな編成が特徴。
その佇まいは、まるで“サハラ発のベッドルーム・ポップ”とも言えるものだ。
この異色の音楽的試みは、トゥアレグ・ブルースの伝統的スタイルを拡張し、Mdou Moctarを“砂漠のプリンス”と呼ばしめる存在に押し上げた原点でもある。
全曲レビュー
1. Anar
タイトル曲にして、アルバムの核。
“愛”という普遍的なテーマを、シンプルながら夢幻的なサウンドで包み込む。
反復されるコードと朴訥なボーカルが、切なさと静かな情熱をにじませる。
2. Tahoultine
『Afelan』でも演奏される代表曲の原型。
このバージョンではドラムマシンとリズムループによって、よりダンスミュージック的な感触に仕上がっている。
メロディとグルーヴの一体感が心地よい。
3. Ibitilan
ロマンティックな印象を持つミディアム・チューン。
優しいギターのフレーズとリズミカルな打ち込みが、手作りのラブソングのような温もりを醸し出す。
曲中に挿入されるボイスエフェクトも印象的で、現地のポップス的センスが垣間見える。
4. Layla
女性の名前を冠した恋愛バラード。
リズムは緩やかで、ギターのトーンも穏やか。
Moctarの“歌うギター”が、言葉以上に感情を伝えてくる。
5. Taliat
トゥアレグ文化において“彼女”を意味するタイトルで、やや悲哀を帯びた旋律が印象的。
個人的な情景が浮かび上がるようなナラティブな構成となっている。
6. Chet Boghassa
本作中でもとりわけ躍動的なトラック。
ファズの効いたギターがグルーヴィーに展開し、ビートもよりエッジの効いた仕上がり。
現地の“バイクで砂漠を駆け抜ける”ような爽快さがある。
7. Anar (Instrumental)
ボーカルなしのインスト版。
ギターの美しさとアレンジの細やかさがより際立つ。
終盤に向けてのディレイの重ね方が幻想的で、まるで砂嵐に包まれるような浮遊感をもたらす。
総評
『Anar』は、Mdou Moctarがローカルな伝統とグローバルなDIY精神を接続させた、きわめてラディカルでパーソナルな音楽作品である。
後年のバンドサウンドとは一線を画す“電子音とギター”の融合は、まさにベッドルーム・ミュージックならぬ“テントルーム・ミュージック”とでも言うべき親密さと独自性を備えている。
音質は決してハイファイではないが、そのローファイ感こそがこの作品の魅力。
録音場所や機材の制約を逆手に取り、“音楽とは何か”“愛とは何か”を静かに問いかけてくる。
それはある意味で、インターネット世代の“ブルース”であり、モバイルカルチャーを土着の詩情に溶け込ませた、まったく新しい形のフォークミュージックなのだ。
おすすめアルバム(5枚)
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Group Inerane / Guitars from Agadez Vol. 3
トゥアレグ・ロックのパイオニアによるローファイかつエネルギッシュな音源。 -
Sahel Sounds / Music from Saharan Cellphones
『Anar』と同様に、携帯電話文化から生まれたサハラのDIY音楽コンピレーション。 -
Bombino / Agadez
より洗練されたサウンドながら、精神性と歌心において共鳴する作品。 -
Mdou Moctar / Ilana (The Creator)
エレクトリック・バンド編成による進化版Moctar。『Anar』とは対照的な音の厚み。 -
Altin Gün / Gece
中東~中央アジアの民謡とサイケを融合した現代フォーク。感覚的な類似性がある。
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