
発売日: 2019年8月16日(EP)
ジャンル: ポストパンク、アートロック、スポークンワード、ローファイ
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概要
『Sweet Princess』は、ロンドンの4人組 Dry Cleaning がデビューEPとして2019年にリリースした作品であり、ポストパンクにスポークンワードを融合させた極めてユニークな音楽スタイルの出発点として注目された。
フローレンス・ショウの“歌わない”語り口と、斜に構えた日常の観察、ミニマルなバンドアンサンブル。ここには、のちの『New Long Leg』や『Stumpwork』にもつながるDry Cleaningの美学が、生々しい手触りのまま剥き出しで記録されている。
社会への軽蔑も、自己への倦怠も、ポップカルチャーへの憧れも、すべてが曖昧で断片的に語られ、意味を持つ前にすり抜けていく。それは、2010年代末の情報過多と感情の過剰を、音楽で可視化する試みだった。
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全曲レビュー
1. Goodnight
わずか1分半のノイズ・フラグメント。日常のざわめきのようなサウンドと、唐突に終わる構成が“起点ではなく断片”としての本EPの方向性を暗示する。
2. New Job
「わたし、新しい仕事してるの」という語りから始まる、就労・労働観に対する脱力系ポストパンク。ドライなギターリフと淡々とした語りが、不条理と虚無を際立たせる。
3. Magic of Meghan
英国王室のメーガン妃に言及しつつ、現代のセレブ文化やジェンダー観を鋭く解体。ある種のメディア批評としても読み解ける、初期Dry Cleaningの代表曲。
4. Traditional Fish
意味不明なフレーズと構造のない語りが連続し、“意味を追わせることへの諧謔”が炸裂。ギターのミニマルな反復が、逆に語りの脱構築性を強調する。
5. Phone Scam
迷惑電話という日常的出来事を、無機質に、そして奇妙に愛おしげに語る一曲。都市生活の気だるさと現代社会の断絶が浮かび上がる。
6. Conversation
リリックは会話の断片と空白によって構成され、話すこと・聞くことの失敗そのものが主題になっている。Dry Cleaning特有の“意味を放棄することで成立する詩”が冴える終曲。
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総評
『Sweet Princess』は、Dry Cleaningが自らの方法論をほぼ完成形に近い形で提示した、鮮烈なデビューEPである。
この作品における最大の特徴は、“言葉が意味になる前の状態”を保ち続けるショウの語りと、バンドによる極端に抑制されたポストパンク・グルーヴとの組み合わせにある。
ここで語られるのは、物語ではない。
むしろその“欠如”そのものが、聴き手の中に逆説的な感情や物語を呼び起こす。
Dry Cleaningの音楽は、説明しないことで語るという、新しい詩の形を模索しているのだ。
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おすすめアルバム(5枚)
- The Fall『This Nation’s Saving Grace』
スポークンスタイルの脱構築ポストパンクの原点。 - Life Without Buildings『Any Other City』
語りと音の身体性が交錯する、Dry Cleaningの源流的作品。 - Snapped Ankles『Stunning Luxury』
現代社会をアブストラクトなサウンドと語りで解体するバンド。 - Sleaford Mods『English Tapas』
語りと怒りのミニマリズム。乾いたユーモアも共通。 - Wire『Chairs Missing』
構造の破壊と再構築を音で行うポストパンク古典。
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歌詞の深読みと文化的背景
“Sweet Princess”というタイトルには、女性性、アイロニー、文化的消費といった多層的なニュアンスが含まれている。
Dry Cleaningはこの作品で、“かわいらしさ”や“語りやすさ”といった形容詞から距離を取り、あえて無機質で解釈不能な言葉を並べることで、現代社会における意味の流動性と、自己表現の困難さを表現している。
そしてそれは、SNSや広告、報道に晒され続ける私たちの“言葉の感覚”に対する、静かな再調整のようにも思えるのだ。
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