
1. 歌詞の概要
Kate Bush(ケイト・ブッシュ)の「Running Up That Hill (A Deal with God)」は、1985年にリリースされた彼女の5作目のスタジオアルバム『Hounds of Love』の冒頭を飾る楽曲であり、彼女のキャリアを代表する名曲の一つです。その詩的で超現実的な世界観、革新的なサウンド、そして深い感情の探求により、1980年代当時の音楽界に強いインパクトを与えました。
歌詞の中心にあるのは、男女間の相互理解への切望です。ケイト・ブッシュは、愛し合っていても決して完全に理解し合うことはできない、という根本的な断絶に直面する恋人たちの感情を描きます。「もし神と取引できるなら、私は立場を入れ替えてみたい」と語る語り手は、相手の苦しみや感情を本当の意味で分かち合うためには、“性別を超えた共感”が必要だという思いに至ります。
“丘を駆け上がる”という比喩は、困難や苦悩を乗り越える努力の象徴であり、それを共有すること、あるいは体験を交換することで、真の理解と愛にたどり着きたいという願いが込められています。単なる恋愛ソングではなく、人間関係の本質、性差、共感の限界について哲学的に探る、極めて成熟したポップソングです。
2. 歌詞のバックグラウンド
当初、この曲のタイトルは単に「A Deal with God」とされていましたが、当時のレコード会社(EMI)は“神との取引”という表現が宗教的にセンシティブだとしてリリースを危惧。国際的リリースへの配慮から、サブタイトルとして括弧付きで添えられる形になり、「Running Up That Hill (A Deal with God)」となりました。
この楽曲は、ケイト・ブッシュが自身のFairlight CMIシンセサイザーを駆使して制作され、リズムマシンとサンプラーを用いた斬新なサウンドメイキングにより、当時の主流ポップソングとは一線を画す未来的で幽玄な世界観を築き上げています。
また、2022年にNetflixドラマ『Stranger Things(ストレンジャー・シングス)』のシーズン4で劇的に使用されたことで、37年ぶりに全英チャート1位、全米チャートでもTOP5入りを果たすという驚異的な再評価を受けました。ケイト・ブッシュが当時から現代まで“時代を超える芸術家”として愛されてきたことを証明する出来事でした。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下に「Running Up That Hill (A Deal with God)」の印象的な歌詞を抜粋し、日本語訳を添えて紹介します。
It doesn’t hurt me
Do you wanna feel how it feels?
私はもう傷つかない
あなたもこの気持ちを味わってみたいと思う?
Do you wanna know, know that it doesn’t hurt me?
Do you wanna hear about the deal that I’m making?
本当に、私が痛みを感じていないって知りたい?
私が交わそうとしている“取引”について聞きたい?
And if I only could
I’d make a deal with God
And I’d get him to swap our places
もしも私にできるのなら
神と取引をして
私たちの立場を入れ替えてもらいたい
Be running up that road
Be running up that hill
With no problems
あの道を駆け上がって
あの丘を登っていける
何の障害もなく
You
Don’t wanna hurt me
But see how deep the bullet lies
あなたは私を傷つけたくない
でもその銃弾がどれほど深く刺さっているか、見て
歌詞引用元: Genius – Running Up That Hill
4. 歌詞の考察
「Running Up That Hill (A Deal with God)」は、愛する者同士であっても“完全に理解し合うことができない”という悲しい現実を、ケイト・ブッシュ独自の神秘的で象徴的な言語で描き出した名曲です。語り手は、恋人との間にある見えない壁を越えるために、極端な願い——神と取引して自分たちの立場を交換する——を思い浮かべます。それは、単なる“性別の入れ替え”以上に、“相手の人生そのものを経験してみたい”という深い共感欲求の表れです。
また、“丘を駆け上がる”というイメージは、感情的にも肉体的にも苦労や困難を乗り越えていく象徴的な行為として繰り返されます。その行動が“with no problems(問題なく)”であれば、愛はもっと純粋に成立するはずだという希望と諦めが同時に存在しています。
興味深いのは、歌詞が一貫して“非対立的”なトーンで書かれていること。怒りや攻撃ではなく、痛みと共にある“理解してほしい”という静かな願いが根底にあります。だからこそこの曲は、リスナー自身の内面に静かに入り込み、誰しもが一度は抱いた“誰かと完全にわかり合いたい”という願望と共鳴するのです。
その意味で「Running Up That Hill」は、恋愛だけではなく、親子、友人、社会とのあらゆる“関係”における葛藤や共感の欲求を象徴する楽曲でもあります。ケイト・ブッシュは、それを神秘的でミニマルな言語とサウンドで表現し、普遍的な感情をタイムレスなかたちで提示したのです。
歌詞引用元: Genius – Running Up That Hill
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Babooshka by Kate Bush
同じくブッシュの象徴的なナラティブソング。女性の複雑な心理描写が魅力。 - This Woman’s Work by Kate Bush
母性と喪失をテーマにした感動的なバラード。人間の感情を静かに描く傑作。 - Teardrop by Massive Attack
女性的な視点と官能性を電子音で描いたトリップホップの名曲。感覚的な世界観が近い。 - Hyperballad by Björk
孤独と再生をテーマにした実験的ポップ。ケイト・ブッシュの精神的後継者とされるビョークの代表作。
6. 時代と性別を超えた、“共感”の歌
「Running Up That Hill (A Deal with God)」は、1985年という時代に生まれながらも、今日まで新鮮に響き続ける“普遍的な問い”を投げかける楽曲です。それは“人はどこまで他人の痛みを理解できるのか?”という哲学的なテーマであり、それに対するケイト・ブッシュの回答は、「もしそれが可能なら、私たちはきっともっと優しくなれるはず」というものです。
だからこそこの曲は、時代やジェンダーを超えて再評価され、2022年の『Stranger Things』での再ブレイクも、単なるノスタルジーではなく、“感情のリアルさ”が時代を超えて伝わった結果だと言えるでしょう。
最先端の音楽と、太古からある人間の感情とが、美しく交差するこの楽曲は、ケイト・ブッシュの芸術的なピークであり、“ポップミュージックが哲学になりうる”ことを証明する、永遠の名曲です。
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