1. 歌詞の概要
「I Used to Love Him」は、Lauryn Hillの傑作アルバム『The Miseducation of Lauryn Hill』に収録された一曲で、Mary J. Bligeとの力強い共演によって、愛と裏切り、そして再生の物語が深く語られている。
タイトルが示すように、この楽曲の主題は「過去形の愛」である。
かつて心のすべてを捧げた相手に裏切られ、傷ついた記憶を静かに、しかし確かな声で振り返る。だがそこには被害者としての嘆きよりも、「自らを取り戻す」という強い意志と覚悟が漂っている。
恋に落ち、傷つき、そして愛を手放すことでようやく自分自身を再発見する――その感情の軌跡が、HillとBligeというふたりの声によって、繊細かつ力強く紡がれていく。
2. 歌詞のバックグラウンド
「I Used to Love Him」は、Hill自身の実体験を色濃く反映した楽曲であり、Fugees時代の関係性、特にWyclef Jeanとの個人的な関係が暗示されていると多くのリスナーや批評家は推測している。
この曲が語る愛の崩壊は、ただのロマンティックな破局ではない。アーティストとして、女性として、そして精神的存在としての自己を回復するための「断絶」であり、癒しのプロセスなのである。
Mary J. Bligeの参加も象徴的だ。90年代を代表する“ソウルの語り部”とも言えるBligeは、自身のキャリアでもしばしば愛の苦しみを歌ってきた。そんな彼女との共演は、Lauryn Hillの個人的な告白をより普遍的な女性の経験として昇華させる効果をもたらしている。
音楽的には、ゴスペルやR&Bの要素を感じさせるアレンジが施されており、神聖さと情熱、冷静と激情が絶妙に交錯している。
3. 歌詞の抜粋と和訳
以下は「I Used to Love Him」の印象的な歌詞の一部である。出典はgenius.comより。
As I look at what I’ve done
これまで自分がしてきたことを振り返るとThe type of life that I’ve lived
どんな人生を歩んできたのかが見えてくるHow many things I pray the Father will forgive
神様がいくつの過ちを許してくれるだろうかと、祈らずにはいられないI used to love him
私はかつて彼を愛していたBut now I don’t
でも、今はもう違う
この一節から伝わるのは、過去の愛を否定するのではなく、それを受け入れたうえで前に進むという姿勢である。
「I used to love him, but now I don’t」というシンプルなフレーズは、未練でも憎しみでもなく、達観ともいえる感情の整理を示している。
4. 歌詞の考察
この曲における「愛の終焉」は、決して感情の死ではない。
むしろその反対で、「自分を取り戻すための愛の手放し」として描かれている。
Hillの語りには、恋人からの裏切りに対する失望や怒りも滲んでいるが、それ以上に響いてくるのは、そこから立ち上がる強さと誇りである。
「How many things I pray the Father will forgive」という一節には、単に過去の選択を悔いるのではなく、霊的な赦しと再生を求める姿勢が感じられる。
また、Mary J. Bligeが歌うヴァースは、Hillの内面的な葛藤を外部から包み込むような役割を果たしており、ふたりの声が交差することで「個人の痛み」が「共同の癒し」へと変化していく。
ここには、女性同士の連帯と相互理解、そして“女性が自らの物語を語ること”の重要性が強く刻まれている。
ゴスペル的な構造を持ちながらも説教臭くはなく、むしろ“語り合う”ことによって癒しが起こるのだという、非常に人間的な表現がなされているのが特徴である。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Not Gon’ Cry by Mary J. Blige
耐え抜いた愛と裏切りの記録を情感豊かに歌った一曲で、同じように自立への道を描いている。 - Ex-Factor by Lauryn Hill
『Miseducation』の中でも最も感情的に揺さぶられるラブソングで、失恋と再生の間で揺れる心理が共通している。 - No More Drama by Mary J. Blige
感情的解放をテーマにした名曲。過去の痛みを断ち切り、未来へ歩む決意が感じられる。 - Tyrone by Erykah Badu
別れを決断した女性の強さとユーモアが光る一曲で、愛を見切る勇気に共鳴する。 - Bag Lady by Erykah Badu
過去の感情を手放すことで自由になっていく女性の姿が描かれており、「I Used to Love Him」の後に聴くと一層の深みを持つ。
6. 傷ついた愛の先にあるもの ― 女性の語りが切り開いた表現の地平
「I Used to Love Him」は、90年代後半におけるブラック・フェミニズムの文脈でも重要な位置を占める楽曲である。
それまでのR&Bやヒップホップでは、女性が自らの視点で愛を語ることが少なかったが、Lauryn HillとMary J. Bligeは、その壁を自らの手で破った。
この曲は、ただ過去の恋を回想しているのではない。愛に傷つきながらも、自分自身を見失わなかった者の物語なのだ。
そして、音楽的にもリリカルにも、“自己肯定”というテーマを、説教や理屈に頼らずに描いている点において、極めてモダンで普遍的な感覚を持っている。
「かつて愛していた。けれど、今はもう違う。」この短い言葉に込められた感情の厚みと、それを語る声の力。
「I Used to Love Him」は、別れの歌であると同時に、愛によってではなく、“自らの選択によって”再び立ち上がる歌なのである。
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