
発売日: 1989年6月20日
ジャンル: ファンク、ポップ、ニュー・ジャック・スウィング、サウンドトラック
概要
『Batman』は、1989年公開のティム・バートン監督映画『バットマン』の公式サウンドトラックとして制作されたプリンスのアルバムである。
映画用の楽曲を手掛けた作品でありながら、単なるタイアップにとどまらず、
プリンスの多面性と実験性が最も鮮やかに現れた「コンセプチュアル・ファンク・オペラ」として位置づけられている。
当時、ワーナー・ブラザースは映画と音楽の両方をヒットさせるため、
プリンスに白羽の矢を立てた。
彼はわずか数週間でこのアルバムを完成させ、
映画の登場人物――バットマン(正義)とジョーカー(狂気)を自らの内面に投影して作曲した。
その結果生まれたのは、ヒーローとヴィラン、秩序と混沌、愛と狂気が交錯する奇妙なサウンド・コラージュであり、
映画のテーマを超えた、プリンスの心理劇でもあった。
本作は世界的ヒットを記録し、シングル「Batdance」は全米1位を獲得。
1980年代末のプリンスが、再びポップ・カルチャーの中心へ返り咲くきっかけとなった。
全曲レビュー
1曲目:The Future
暗闇の中から立ち上がる低音のビートと、聖歌のようなコーラスが印象的なオープニング。
タイトル通り、未来への不安と希望を同時に感じさせる。
“未来は君の中にある(The future is in your hands)”という言葉は、
混乱する世界の中での人間の自由意志をテーマにしている。
重厚なシンセとリズムマシンが“サイバー・ファンク”を予感させる。
2曲目:Electric Chair
ジョーカー視点の狂気的ファンク。
「もし狂気が罪なら、俺を処刑台に送れ(If a man is considered guilty for what goes on in his mind…)」という歌詞が強烈だ。
ギター・リフの歪みと電子ドラムが交錯し、
『Dirty Mind』時代の攻撃性を映画的にアップデートしたような曲である。
ライブではプリンスのギター・プレイが炸裂する代表的ナンバー。
3曲目:The Arms of Orion(with Sheena Easton)
シーナ・イーストンとのデュエットによるバラード。
映画の中でブルース・ウェインとヴィッキー・ヴェイルの恋愛関係を象徴する。
ロマンティックなメロディと夜空を思わせるアレンジが美しく、
アルバムの中で最も“人間的”な瞬間を提供している。
“オリオンの腕の中で眠る”という詩的な表現が幻想的だ。
4曲目:Partyman
ジョーカーが登場するシーンで使用された、陽気でカオティックなファンク・チューン。
ホーン・セクションとファルセットが炸裂し、まさに“狂気の祝祭”。
ジョーカーの破壊的ユーモアを、プリンスが音楽で完全に具現化している。
“誰もが楽しむために壊す”という逆説的メッセージが、時代の皮肉を象徴する。
5曲目:Vicki Waiting
ブルース・ウェイン(=バットマン)の内面を描いた内省的トラック。
愛と使命の間で揺れる孤独が静かに表現されている。
低音のグルーヴに支えられたメロウなテンポが、
プリンス自身の“スーパースターとしての孤独”とも重なる。
もともとは「Anna Waiting」という別の女性に捧げた曲を改作したものだ。
6曲目:Trust
華やかでシンセ・ポップ的なサウンド。
映画ではバットマンとジョーカーの衝突場面に使用される。
“信頼こそが世界を救う”というメッセージが込められ、
プリンスらしいポジティブな哲学が垣間見える。
リズム構成は当時のニュー・ジャック・スウィングを先取りするような跳ね感を持っている。
7曲目:Lemon Crush
プリンスの高音ヴォーカルと不規則なリズムが織りなすサイバー・ファンク。
電気的な官能とスピード感が際立つ。
タイトルの“レモン・クラッシュ”は、比喩的に“愛の爆発”を意味しており、
プリンス的エロスを未来的に再構築した一曲。
8曲目:Scandalous
スロウで官能的なラブ・バラード。
ジョーカーとヴィッキーの危険な関係を象徴しており、
音楽的には『The Beautiful Ones』や『Adore』の流れを汲む。
ヴォーカルの表現力が極限まで研ぎ澄まされ、
エロティシズムが神聖さに変わる瞬間を聴くことができる。
9曲目:Batdance
アルバムのラストを飾る、プリンス流ポップ・マニフェスト。
映画のセリフやサウンドエフェクトをサンプリングし、
複数の楽曲モチーフを組み合わせた“カオスのコラージュ”のような構成。
ジョーカーとバットマン、善と悪、正気と狂気――その対立を音で再現している。
実験的でありながら、全米1位に輝くヒットを記録した。
プリンスのプロデューサー的天才性を示す象徴的トラックである。
総評
『Batman』は、プリンスが商業音楽と芸術性のバランスを完全に掌握した作品である。
一見サウンドトラック的だが、実際は映画の文脈を越えて、
“プリンス版バットマン神話”を構築している。
彼は登場人物を自らの内面の比喩として描き、
ジョーカーの狂気とバットマンの孤独を行き来する“二重人格的構造”を採用した。
サウンド面では、80年代後期のトレンドであるニュー・ジャック・スウィングや電子ファンクを大胆に取り入れつつ、
従来のプリンスらしいエロスと遊び心を損なわない。
「Partyman」「Trust」「Electric Chair」など、ライブでの再現性を意識したアレンジも多く、
ポップでありながら実験的という絶妙なバランスを保っている。
『Batman』はまた、プリンスが自らのイメージをポップ・カルチャーに組み込んだ最初の作品でもある。
彼は映画の中で登場しないにもかかわらず、
サウンドを通じて“もう一人の登場人物”として存在しているのだ。
この作品によってプリンスは再び商業的頂点に立ち、
90年代の『Diamonds and Pearls』や『The Symbol Album』へと続く道を開いた。
おすすめアルバム(5枚)
- Sign “☮” the Times / Prince (1987)
社会・愛・信仰のテーマを総合した前作の到達点。 - Lovesexy / Prince (1988)
本作の“光”に対し、“内なる宗教的探求”を描いた精神的姉妹作。 - Graffiti Bridge / Prince (1990)
『Batman』の延長線上にあるサントラ的性格を持つ続編的作品。 - Dangerous / Michael Jackson (1991)
ニュー・ジャック・スウィングの進化形。時代的文脈で対照的。 - Parade / Prince (1986)
映画的構成と音楽的実験を両立させた原点的作品。
制作の裏側
ティム・バートン監督は当初、ダニー・エルフマンが全編スコアを担当する予定だったが、
ワーナー・ブラザースの提案でプリンスが楽曲制作に加わることになった。
プリンスは映画のラフカットを観ながら、キャラクターごとにテーマ曲を作成。
短期間で完成させるため、自身のペイズリー・パーク・スタジオに籠もり、
すべての楽器・ヴォーカルを自ら担当した。
バートンは当初、プリンスの楽曲が映画に馴染むか懐疑的だったが、
最終的にはその“異質さ”が映画のダークな美学を際立たせる結果となった。
特に「Partyman」や「Trust」は、映画の印象を決定づける重要な要素となった。
歌詞の深読みと文化的背景
『Batman』の歌詞群には、ヒーロー映画の表層を越えた心理的・哲学的テーマが隠されている。
「The Future」では、人類の倫理と希望が語られ、
「Electric Chair」では狂気と創造性の境界を探る。
「Vicki Waiting」では孤独な魂が救いを求め、
「Scandalous」では愛が罪に変わる瞬間を描く。
つまり、このアルバムは“善と悪”ではなく、“欲望と救済”をテーマとしたプリンス版『バットマン』である。
ジョーカーの混沌に惹かれつつも、最後には愛に帰着する――
その構造は『Lovesexy』や『The Black Album』に通じる二元的世界観の延長線上にある。
ビジュアルとアートワーク
ジャケットは、黒地に黄金のバットマン・ロゴというシンプルなデザイン。
それは商業的プロジェクトとしての象徴であると同時に、
“プリンスの名を消した匿名の作品”という点でも異例であった。
当時の宣伝では、映画と音楽の両方を“同一世界観”として展開し、
プリンスはあたかも映画の登場人物のようにメディアに現れた。
ミュージックビデオでは、彼自身が“バットマン”と“ジョーカー”の二役を演じ、
その間を行き来することで“善と悪の共存”を視覚的に表現している。
それは、彼自身の芸術観――“エロスと神性の両立”をそのまま具現化したものでもある。
『Batman』は、プリンスがポップカルチャーの中で最も自在に遊んだ瞬間であり、
芸術と商業、狂気と秩序、愛と破壊のすべてを音楽に封じ込めたアルバムである。
それは単なる映画音楽ではなく、“プリンスという人物のもうひとつの神話”なのだ。



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