
発売日:2019年8月30日
ジャンル:R&B、ネオ・ソウル、コンテンポラリーR&B、ヒップホップ・ソウル、シンガーソングライター
概要
H.E.R.の『I Used to Know Her』は、2019年に発表されたコンピレーション形式のプロジェクトであり、先行してリリースされたEP『I Used to Know Her: The Prelude』と『I Used to Know Her: Part 2』の楽曲を中心に構成された作品である。名義上はスタジオ・アルバムというより、EP群を統合した長編作品に近いが、H.E.R.の音楽的アイデンティティを理解する上では非常に重要な一枚である。2017年の『H.E.R.』で、匿名性、暗い照明のようなR&B、親密なヴォーカル、ミニマルなビートによって注目を集めた彼女は、本作でより明確に自身のルーツ、演奏力、作家性、社会的視点を提示している。
H.E.R.という名前は“Having Everything Revealed”の略とされるが、初期の彼女はサングラスをかけ、素顔や私生活を前面に出さないミステリアスなアーティスト像で知られた。その一方で、歌われる内容は非常に個人的で、恋愛の不安、距離、未練、裏切り、自己防衛が中心にあった。『I Used to Know Her』では、その親密なR&Bの世界を保ちつつ、より広い文脈へ進んでいる。特に「Lost Souls」ではLauryn Hillを参照しながら、現代の黒人女性アーティストとしての意識を示し、「Lord Is Coming」では宗教的・社会的な警告を含むスポークン・ワード的な表現へ踏み込む。
本作のタイトル『I Used to Know Her』は、「かつて彼女を知っていた」という意味を持つ。この“Her”は、H.E.R.自身でもあり、過去の自分でもあり、失われた女性像でもあり、あるいはR&Bやソウルの歴史の中にいた誰かでもある。タイトルには、自己認識の変化、過去との距離、そして「本当の彼女を知っていたつもりだったが、今はもう違う」という複雑な感覚が含まれている。H.E.R.はここで、単に恋愛の語り手としてではなく、自分自身の変化を見つめるアーティストとして立ち現れる。
音楽的には、本作は『H.E.R.』よりもオーガニックで、演奏者としてのH.E.R.の側面が強く出ている。彼女はギター、ピアノ、ベース、ドラム的なグルーヴに対して深い理解を持ち、単なるヴォーカリストではなく、楽器を通じてR&Bの質感を作るアーティストである。「Carried Away」「Hard Place」「Take You There」「Fate」などでは、現代的なR&Bプロダクションに加え、ネオ・ソウルやクラシック・ソウルの温度が感じられる。ギターのフレーズはしばしば歌声と同じように感情を語り、彼女の音楽にブルース的な深みを加えている。
本作はまた、H.E.R.がAlicia Keys、Lauryn Hill、Erykah Badu、Jill Scott、D’Angelo、Princeといったアーティストの系譜にあることを強く示している。Alicia Keysのように楽器を弾きながらR&Bを歌い、Lauryn Hillのように歌とラップ、社会意識を横断し、Erykah BaduやJill Scottのようにネオ・ソウルの内省と黒人女性の主体性を表現する。もちろんH.E.R.はそれらの模倣ではない。彼女は2010年代後半のストリーミング時代のミニマルな音像、ヒップホップ以降のビート感覚、親密なマイク距離を用いながら、クラシックなR&Bの感情表現を更新している。
歌詞面では、恋愛関係の不安定さが多く扱われる。相手を愛しているが、関係が自分を傷つけることも知っている。信じたいが、裏切られる可能性を感じている。近づきたいが、自分の境界線も守りたい。H.E.R.の歌う恋愛は、明確な幸福や悲劇ではなく、その中間にある曖昧な状態を描く。これは現代R&Bにおける重要な感覚であり、SZAやSummer Walker、Jhené Aikoらにも通じる、親密さの不安を反映している。
ただし『I Used to Know Her』は、恋愛だけに閉じない。プロジェクト全体には、自己の再発見、黒人音楽の継承、社会的な不正への意識、信仰や倫理への問いが含まれている。H.E.R.は本作で、自分が単なるムード系R&Bの歌い手ではなく、歴史や社会と接続するソングライターであることを示している。その意味で本作は、後の『Back of My Mind』へ向かう重要な橋渡しであり、H.E.R.の全体像を把握する上で欠かせない作品である。
全曲レビュー
1. Lost Souls feat. DJ Scratch
オープニング曲「Lost Souls」は、Lauryn Hillの「Lost Ones」を明確に参照した楽曲であり、本作の方向性を強く印象づける。H.E.R.はここで、単なる歌手ではなく、R&Bとヒップホップ、過去と現在をつなぐ語り手として登場する。DJ Scratchの参加も、ヒップホップ的なルーツ意識を強めている。
音楽的には、ビートのざらつき、スクラッチ、ラップに近いフロウが中心となり、H.E.R.の普段の滑らかなR&Bとは異なる硬質な入口を作る。彼女のヴォーカルは歌というより語りに近く、言葉のリズムが前面に出る。これは、Lauryn Hill以降の黒人女性アーティストが持つ、歌とラップ、個人と社会、自己表現と批評性を行き来する姿勢を継承している。
歌詞では、名声、誤解、自己喪失、業界の中での立ち位置が示唆される。タイトルの「Lost Souls」は、失われた魂、方向を見失った人々を意味するが、それは音楽業界の中で自分を失う人々でもあり、現代社会の中で本質を見失う人々でもある。H.E.R.はここで、甘い恋愛の語り手としてではなく、観察者、批評者、継承者としての姿を示す。
この曲を冒頭に置くことは非常に重要である。H.E.R.は本作を単なるR&Bバラード集として始めない。最初にヒップホップ的な自己宣言を置くことで、彼女の音楽が深い黒人音楽の歴史とつながっていることを明確にしている。
2. Fate
「Fate」は、運命、偶然、関係の必然性をテーマにした楽曲である。H.E.R.の恋愛表現では、相手との出会いや別れが、単なる選択ではなく、避けられない力のように描かれることがある。この曲もその一つであり、関係が自分の意思を超えて進んでいく感覚がある。
音楽的には、ネオ・ソウル的な温かいコードと、現代R&Bの控えめなビートが組み合わされている。H.E.R.の声は穏やかで、過剰に感情を押し出さない。むしろ、運命を受け入れるような低い温度で歌うことで、曲に深い余韻が生まれる。
歌詞では、相手との関係が偶然なのか必然なのか、まだ答えの出ない状態が描かれる。運命という言葉はロマンティックに響くが、H.E.R.の歌では必ずしも幸福だけを意味しない。運命的であることは、逃れにくいということでもある。相手を求める気持ちと、その関係に巻き込まれていく不安が同時に存在する。
「Fate」は、H.E.R.の得意とする“曖昧な親密さ”を静かに描いた楽曲である。大きなフックで感情を爆発させるのではなく、心の奥で続く問いとして恋愛を表現している。
3. Carried Away
「Carried Away」は、感情に流されること、恋愛の勢いに巻き込まれることをテーマにした楽曲である。タイトルは「夢中になる」「我を忘れる」という意味を持ち、愛や欲望によって自分の判断が揺らぐ感覚を示している。
音楽的には、滑らかなR&Bグルーヴが中心で、ベースとビートが柔らかく流れる。H.E.R.の声は落ち着いているが、歌詞の中には感情が自分の手を離れていく不安がある。サウンドの心地よさと、歌詞の中の危うさが対照的である。
歌詞では、相手への思いが強くなりすぎ、自分でも制御できなくなる状態が描かれる。H.E.R.は恋愛を、ただ甘いものとしては描かない。夢中になることは快楽であると同時に、自分を見失うリスクでもある。この曲では、その境界線が揺れている。
「Carried Away」は、本作のR&Bアルバムとしての聴きやすさを支える楽曲であると同時に、H.E.R.のテーマである自己防衛と欲望の緊張をよく示している。流されたいが、流されすぎたくない。その矛盾が曲の中心にある。
4. Going
「Going」は、別れ、移動、関係から離れていく感覚を扱った楽曲である。タイトルの「Going」は非常に簡潔だが、そこには去ること、変わること、前へ進むこと、あるいは関係が終わりへ向かうことが含まれる。
音楽的には、抑制されたR&Bトラックで、H.E.R.の声が近くに置かれている。ビートは強く主張せず、曲全体は静かに流れていく。これは、劇的な別れというより、気づけば距離ができていた関係を描くのに適している。
歌詞では、相手との間にあったものが少しずつ変わっていくことが示される。感情が消えたのか、まだ残っているのか、はっきりしない。しかし、何かが動いている。H.E.R.はその変化を大げさに叫ばず、淡々と歌う。だからこそ、関係の終わりにある現実的な寂しさが際立つ。
「Going」は、H.E.R.の静かな感情処理の技術が表れた曲である。彼女は別れを壮大な悲劇にするのではなく、日常の中で少しずつ遠ざかる感覚として描く。
5. Be on My Way
「Be on My Way」は、本作の中でも最も明確に“去る”ことを歌った楽曲である。タイトルは「私はもう行く」という意味を持ち、関係から身を引く決意が込められている。恋愛の中で傷つきながらも、最終的には自分を守るために離れるというテーマが中心にある。
音楽的には、ミニマルなアレンジがH.E.R.の声を引き立てている。派手な展開は少なく、歌の中の決意が静かに前面へ出る。彼女の歌唱は強く叫ぶものではないが、言葉には明確な意志がある。この抑制された強さが、H.E.R.の魅力の一つである。
歌詞では、相手への未練が完全に消えたわけではないが、それでも自分の道を行く必要があるという判断が描かれる。これは単なる別れの歌ではなく、自己尊重の歌でもある。愛していても、自分を消耗させる関係からは離れなければならない。
「Be on My Way」は、本作における自己防衛のテーマを象徴する曲である。H.E.R.の恋愛表現は、相手にすがるだけではない。彼女は傷つきながらも、最終的には自分の足で歩こうとする。
6. Can’t Help Me
「Can’t Help Me」は、相手や周囲が自分を救えない状態を描いた楽曲である。タイトルは「私を助けられない」という意味を持ち、感情の孤立、自己解決の必要性、あるいは他者への諦めが含まれる。
音楽的には、暗めのトーンを持つR&Bで、低く沈むビートとH.E.R.の内省的な声が中心となる。曲全体には夜のような静けさがあり、感情が外へ爆発するのではなく、内側へ沈んでいく。
歌詞では、相手が自分の痛みを理解できないこと、あるいは自分自身もどうすればよいか分からないことが描かれる。誰かに助けてほしいが、その誰かは本当には助けられない。H.E.R.はこの孤独を、静かで冷静な声で表現する。
「Can’t Help Me」は、本作の中でも心理的な重さを持つ曲である。恋愛や人間関係の中で生まれる孤独を、過度な演出なしに描いている。H.E.R.の音楽が単なるムードではなく、内面の複雑さを扱うものであることが分かる。
7. Something Keeps Pulling Me Back
「Something Keeps Pulling Me Back」は、終わらせたい関係や離れたい相手から、何かに引き戻されてしまう感覚を歌った楽曲である。タイトルは「何かが私を引き戻す」という意味で、未練、欲望、記憶、習慣、身体的な結びつきが複雑に絡んでいる。
音楽的には、ゆったりとしたR&Bのグルーヴがあり、曲全体に引力のような重さがある。ビートは前へ進むというより、同じ場所を回るように感じられる。この音楽的な循環が、歌詞の「引き戻される」感覚とよく合っている。
歌詞では、相手から離れるべきだと分かっているのに、完全には離れられない心理が描かれる。H.E.R.はこうした矛盾を非常に自然に歌う。人は理性的に正しい選択を理解していても、感情や身体は別の方向へ動く。この曲はその現実を表している。
「Something Keeps Pulling Me Back」は、本作の恋愛観を象徴する楽曲のひとつである。愛は自由意志だけで扱えるものではなく、時に人を同じ場所へ戻してしまう力である。
8. Feel a Way
「Feel a Way」は、相手の行動や言葉によって感情が揺らぐ瞬間を描いた楽曲である。タイトルは口語的で、「なんだか気になる」「感情的になる」といったニュアンスを持つ。H.E.R.の歌詞には、こうした明確に説明しにくい感情がよく登場する。
音楽的には、控えめなビートと柔らかなコードが中心で、ヴォーカルのニュアンスが楽曲を支えている。H.E.R.の声は非常に近く、まるで相手に直接話しているように響く。この親密な距離感が、曲のテーマと合っている。
歌詞では、相手の態度に対する違和感や不安が描かれる。大きな裏切りがあったわけではないかもしれない。しかし、小さな言葉や行動が心に引っかかり、感情を乱す。H.E.R.はそうした微細な心理を丁寧に拾う。
「Feel a Way」は、現代R&Bらしい感情の曖昧さを表した曲である。はっきりした事件ではなく、関係の中に生まれる小さなズレを歌うことで、リアルな親密さを描いている。
9. 21
「21」は、年齢、成長、若さ、自己認識をテーマにした楽曲である。タイトルが示す通り、21歳という時期における人生の過渡期が背景にある。H.E.R.は若くして成功したアーティストであり、この曲では年齢に対する社会的な期待や、自分自身の成長への戸惑いが感じられる。
音楽的には、比較的軽やかなR&Bでありながら、歌詞には自己確認の意味合いが強い。H.E.R.のヴォーカルは落ち着いており、若さを誇示するというより、若いまま大きな責任を背負う感覚がにじむ。
歌詞では、21歳で経験する自由、成功、混乱、期待が描かれる。大人として扱われる一方で、自分自身はまだ変化の途中にいる。H.E.R.の音楽には成熟した印象があるが、この曲では若いアーティストとしての現在地が見える。
「21」は、本作の中で個人的な成長を示す重要な曲である。恋愛だけでなく、自分がどのような人物になりつつあるのかを見つめる視点が加わっている。
10. Racks feat. YBN Cordae
「Racks」は、YBN Cordaeを迎えた楽曲であり、金銭、成功、価値、関係性をテーマにしている。タイトルの“racks”は札束を意味し、R&Bとヒップホップの中でしばしば成功や富の象徴として使われる言葉である。
音楽的には、ヒップホップ寄りのビートが強く、H.E.R.の滑らかな声とCordaeのラップが対比を作る。曲は派手すぎず、H.E.R.らしい落ち着いたムードを保ちながら、ヒップホップ的なテーマを扱っている。
歌詞では、金銭が人間関係や自己価値にどう関わるのかが示される。成功は自由をもたらす一方で、人を変え、関係を複雑にする。H.E.R.はこのテーマを、単なる富の誇示ではなく、感情や信頼の問題として扱う。
「Racks」は、本作に現代ヒップホップの感覚を加える曲であり、H.E.R.がネオ・ソウル的な内省だけでなく、同時代のラップ・シーンとも自然に接続していることを示している。
11. I’m Not OK
「I’m Not OK」は、本作の中でも最も直接的なタイトルを持つ楽曲のひとつであり、心の状態をそのまま言葉にしている。「私は大丈夫じゃない」という言葉はシンプルだが、H.E.R.の抑制された歌唱によって非常に重く響く。
音楽的には、静かで内省的なバラードであり、ピアノやギターの余白が声を支える。大きなドラマを作るのではなく、感情をそのまま置くような構成である。H.E.R.の声は穏やかだが、そこには疲労と正直さがある。
歌詞では、外側には平静を保ちながら、内側では崩れている状態が描かれる。現代のR&Bにおいて、メンタルヘルスや感情の正直さは重要なテーマになっているが、この曲はその流れの中にある。H.E.R.は強い女性像を演じるだけでなく、大丈夫ではない自分も見せる。
「I’m Not OK」は、本作の中で非常に重要な自己告白の曲である。恋愛の痛みだけでなく、自分自身の心の状態に向き合う姿勢がある。静かだが、強い楽曲である。
12. Against Me
「Against Me」は、対立、孤立、周囲からの圧力をテーマにした楽曲である。タイトルは「私に敵対して」という意味で、自分が世界や誰かと対立している感覚がある。
音楽的には、緊張感のあるR&Bで、ビートとヴォーカルが暗いムードを作る。H.E.R.の歌唱は抑制されているが、言葉には怒りや防御の気配がある。派手な攻撃性ではなく、内側で静かに燃える抵抗感がある。
歌詞では、相手や社会が自分を理解しないこと、自分に対して不利に働く力があることが描かれる。これは恋愛の文脈にも読めるが、アーティストとしての立場や社会的な圧力にも重ねられる。H.E.R.は自分の居場所を守ろうとしている。
「Against Me」は、本作の中でH.E.R.の強さを示す曲である。彼女の音楽は柔らかいが、その柔らかさの中には明確な抵抗の意志がある。
13. Could’ve Been feat. Bryson Tiller
「Could’ve Been」は、Bryson Tillerを迎えた本作の代表的な楽曲であり、H.E.R.の現代R&Bにおける魅力が凝縮されている。タイトルは「そうなれたかもしれない」という意味で、実現しなかった関係、可能性のまま終わった恋を歌っている。
音楽的には、暗く滑らかなビート、繊細なコード、男女のヴォーカルの掛け合いが印象的である。Bryson Tillerの声は、メロディック・ラップ以降のR&B感覚を持ち、H.E.R.の声と非常に相性がよい。二人の声は、互いに届きそうで届かない距離を作る。
歌詞では、二人が本当ならもっと深い関係になれたかもしれないという後悔が描かれる。過去の選択、タイミング、すれ違いによって、可能性は現実にならなかった。H.E.R.はその「もしも」を、非常に静かで切ない形で歌う。
「Could’ve Been」は、現代R&Bにおける未完の恋の名曲である。終わった関係よりも、始まりきらなかった関係の方が心に残ることがある。この曲はその感覚を見事に捉えている。
14. Good to Me
「Good to Me」は、相手に対して誠実でいてほしい、優しくしてほしいという願いを歌った楽曲である。タイトルは「私に良くして」という意味を持ち、H.E.R.の恋愛表現における核心的なテーマの一つである、愛と自己尊重のバランスが示されている。
音楽的には、スロウなR&Bバラードで、H.E.R.の声が柔らかく響く。サウンドは非常に親密で、聴き手は彼女の内面に近づくような感覚を得る。派手な装飾はなく、言葉と声の温度が中心である。
歌詞では、相手に愛されたいという願いだけでなく、きちんと扱われたいという要求がある。これは重要である。H.E.R.は相手にすがるだけではなく、自分が尊重されるべき存在であることを理解している。愛は欲しいが、傷つけられることを受け入れるわけではない。
「Good to Me」は、H.E.R.の静かな強さを表した曲である。優しさを求めることは弱さではなく、関係における正当な要求である。そのメッセージが、穏やかな音楽の中に込められている。
15. Take You There
「Take You There」は、親密さ、誘い、身体的な距離の近さを扱った楽曲である。タイトルは「あなたをそこへ連れていく」という意味で、恋愛や官能の場面を示唆している。
音楽的には、ギターや柔らかなビートが心地よく、R&Bらしい官能的なムードがある。H.E.R.のヴォーカルは控えめだが、細かなニュアンスによって強い引力を作る。直接的に歌いすぎず、余白を残すことで、曲の官能性が高まっている。
歌詞では、相手と共に別の場所へ行くこと、感情や身体の境界を越えることが描かれる。ただしH.E.R.の表現は露骨ではなく、雰囲気で伝える。これにより、曲は親密でありながら上品な質感を保っている。
「Take You There」は、本作の中でH.E.R.のR&Bシンガーとしての官能的な魅力を示す楽曲である。声、ギター、ビートが一体となり、夜の空気を作っている。
16. As I Am
「As I Am」は、自分をそのまま受け入れてほしいというテーマを持つ楽曲である。タイトルは「ありのままの私」という意味で、恋愛の中で自分を偽らずにいられるかどうかが問われる。
音楽的には、穏やかでソウルフルなR&Bで、H.E.R.の声が自然体で響く。派手なアレンジではなく、歌の誠実さが前面に出る。コード進行にはネオ・ソウル的な温かさがあり、曲全体に安心感がある。
歌詞では、自分の欠点、過去、弱さも含めて受け入れてほしいという願いが描かれる。これは恋愛における重要なテーマである。愛されるために理想の自分を演じるのではなく、そのままの自分でいられる関係を求める。
「As I Am」は、本作のタイトル『I Used to Know Her』ともつながる。かつて知っていた自分、変わりつつある自分、そして今の自分を受け入れること。H.E.R.はここで、恋愛を自己受容の問題として描いている。
17. Hard Place
「Hard Place」は、本作の中でも最も完成度の高い楽曲のひとつであり、H.E.R.の代表曲としても重要である。タイトルは「困難な場所」を意味し、愛と自己防衛の間で板挟みになる状態が描かれる。
音楽的には、ギターを中心にしたソウルフルなバラードで、H.E.R.の演奏者としての魅力がよく表れている。サビでは感情が大きく広がるが、過度に演劇的にならず、あくまでR&Bの滑らかさを保つ。声とギターの関係が非常に美しい。
歌詞では、相手を愛しているが、その関係が自分を傷つけることも分かっているという葛藤が中心になる。愛を選ぶか、自分を守るか。どちらも簡単ではない。H.E.R.はその困難を、非常に普遍的な言葉で歌っている。
「Hard Place」は、H.E.R.のソングライティングの核心を示す曲である。親密さへの欲望と自己尊重の必要性が、最も明確に表現されている。現代R&Bの名バラードとして非常に重要な楽曲である。
18. Lord Is Coming
アルバムを締めくくる「Lord Is Coming」は、本作の中で最も社会的・宗教的な色合いが強い楽曲である。ピアノを背景にしたスポークン・ワード的な導入から始まり、H.E.R.は現代社会の不正、暴力、偽善、倫理の崩壊を語る。これはアルバムの終曲として非常に重要であり、本作を単なる恋愛R&B作品に終わらせない。
音楽的には、ゴスペル、ソウル、スポークン・ワードが融合している。ピアノの響きは教会的であり、H.E.R.の声は歌手というより預言者的な語り手として機能する。後半に向かって音楽はより祈りの形に近づく。
歌詞では、世界の不正に対する警告が示される。神が来る、裁きが来るという言葉は、宗教的な意味だけでなく、倫理的な目覚めを促す言葉として機能している。H.E.R.はここで、R&Bアーティストとしての個人的な感情から、より広い社会的な視点へ移行する。
「Lord Is Coming」は、終曲として非常に力強い。恋愛の痛み、自己認識、成功、未練を経た後、最後に社会と神への問いが置かれる。これによって『I Used to Know Her』は、H.E.R.の個人的な作品であると同時に、黒人音楽の精神的・社会的な伝統に接続する作品となる。
総評
『I Used to Know Her』は、H.E.R.というアーティストの多面性を示す重要な作品である。『H.E.R.』で確立された暗く親密なR&Bの世界を引き継ぎながら、本作ではより演奏者としての側面、ソングライターとしての意識、ヒップホップやネオ・ソウルへの接続、社会的な視点が前面に出ている。単なるEP集の編集版としてではなく、H.E.R.の成長過程を記録した作品として聴くべきアルバムである。
本作の中心には、恋愛における葛藤がある。「Could’ve Been」では実現しなかった関係への未練が歌われ、「Hard Place」では愛と自己防衛の間で揺れる苦しさが描かれる。「Be on My Way」や「Good to Me」では、相手を愛しながらも自分を守る必要があることが示される。H.E.R.の恋愛表現は、受け身の悲しみではない。彼女は傷つきながらも、自分がどう扱われるべきかを知っている。
音楽的には、R&Bの歴史への深い理解が感じられる。Lauryn Hillへの明確な参照を持つ「Lost Souls」、ネオ・ソウル的なコード感を持つ「Fate」や「As I Am」、ギターを中心にした「Hard Place」、現代ヒップホップと接続する「Racks」。これらは、H.E.R.が単一のムードに閉じたアーティストではなく、R&Bの過去と現在を横断する存在であることを示している。
特に重要なのは、H.E.R.が楽器を弾くアーティストであるという点である。ギターやピアノが、彼女の音楽では単なる伴奏ではなく、感情の輪郭を作る。これはAlicia KeysやPrince、Lauryn Hillの系譜に通じるものであり、現代R&Bの中で彼女を際立たせる要素である。ヴォーカルだけでなく、演奏者としての身体性が音楽に刻まれている。
本作はまた、H.E.R.が社会的な意識を持つアーティストであることも示す。「Lord Is Coming」はその最も明確な例であり、黒人音楽におけるゴスペル、プロテスト、スポークン・ワードの伝統を引き継いでいる。恋愛の内面を描くR&Bから、社会や神への問いへ広がるこの終曲によって、作品全体のスケールは大きくなる。
一方で、アルバムとしては長く、EP群を統合した作品であるため、構成にはやや散漫さもある。楽曲ごとの完成度は高いが、完全に一つのアルバムとして設計された緊密さよりも、H.E.R.のさまざまな側面を並べた作品という印象が強い。しかし、その広がりこそが本作の価値でもある。彼女がどの方向へ進むこともできるアーティストであることを示しているからである。
『I Used to Know Her』というタイトルは、最終的に自己変化の物語として響く。かつて知っていた彼女はもう同じではない。恋愛を経験し、傷つき、名声を得て、社会を見つめ、音楽の歴史を背負いながら、H.E.R.は新しい自分へ移行している。本作はその途中の記録であり、完成された到達点というより、変化の過程そのものを聴かせる作品である。
日本のリスナーにとって本作は、現代R&Bの入口として非常に有効である。メロディの分かりやすい「Hard Place」や「Could’ve Been」から入り、そこから「Lost Souls」や「Lord Is Coming」のような歴史的・社会的な曲へ進むことで、H.E.R.の幅広い魅力を理解できる。R&B、ネオ・ソウル、ヒップホップ、シンガーソングライター的な表現を横断する作品として、非常に聴き応えがある。
『I Used to Know Her』は、H.E.R.が単なる“雰囲気のあるR&Bシンガー”ではなく、演奏し、書き、語り、歴史を参照し、社会へ目を向けるアーティストであることを示した重要作である。親密でありながら広く、柔らかくありながら強い。H.E.R.の才能の輪郭が、最も多面的に表れた作品のひとつである。
おすすめアルバム
1. H.E.R. – H.E.R.
H.E.R.の初期EP群をまとめた作品で、彼女の匿名性、暗いR&B、親密なヴォーカル、美しいメロディが確立された重要作。「Focus」「Best Part」などを収録し、『I Used to Know Her』以前の美学を理解できる。
2. H.E.R. – Back of My Mind
H.E.R.の長編スタジオ・アルバムとして、より多彩なゲストと広いサウンドを取り入れた作品。『I Used to Know Her』で示された恋愛の不安、自己防衛、現代R&Bとヒップホップの融合が、さらに大きなスケールで展開されている。
3. Lauryn Hill – The Miseducation of Lauryn Hill
歌、ラップ、ネオ・ソウル、ヒップホップ、社会的視点、女性としての自己認識を融合した歴史的名盤。『I Used to Know Her』の「Lost Souls」を理解する上でも重要であり、H.E.R.の音楽的背景にある大きな影響源として聴く価値が高い。
4. Alicia Keys – Songs in A Minor
ピアノを弾きながらR&Bとソウルを歌う女性シンガーソングライター像を2000年代に強く提示した作品。H.E.R.の演奏者としての姿勢、クラシックなR&Bへの敬意、親密な歌唱を理解する上で関連性が高い。
5. SZA – Ctrl
現代R&Bにおける恋愛の曖昧さ、自己不安、女性の主体性を生々しく描いた重要作。H.E.R.よりもオルタナティヴ寄りで語り口は率直だが、親密さへの欲望と自己防衛の緊張という点で深く響き合う。

コメント