
発売日: 1994年8月16日
ジャンル: ファンク、ジャズ、R&B、インダストリアル、アートポップ
概要
『Come』は、1994年にリリースされたプリンスのアルバムであり、
彼が自身の名前を“Love Symbol(愛の象徴)”へと変更した直後に発表された作品である。
この時期のプリンスは、ワーナー・ブラザースとの契約問題によって激しく対立しており、
メディアでは“奴隷(Slave)”という言葉を頬に書いて登場するなど、
アーティストとしての自由と権利をめぐる闘いの渦中にあった。
そのため、『Come』は一見セクシュアルで退廃的なアルバムでありながら、
実際には“死と再生”“肉体の終焉と精神の解放”という強烈なメッセージを内包している。
前作『Love Symbol Album』(1992)が神秘と愛の物語であったのに対し、
『Come』はその“裏面”として、暗く、内省的で、そして挑発的だ。
それは、プリンスという“人間”の死と、シンボルとしての“再誕”を描いた作品でもある。
全曲レビュー
1曲目:Come
アルバム冒頭を飾るタイトル曲にして、最長の11分超。
囁くようなヴォーカル、重厚なベース、そして官能的なサックスが交錯する。
性的な呼びかけのように始まりながら、次第に宗教的トーンへと変化していく構成は圧巻。
“愛と死の儀式”を音楽で描いたようなこの曲は、
『Come』全体のテーマ――「快楽の果てにある精神の浄化」――を象徴している。
2曲目:Space
80年代的なポップさと90年代の電子的テクスチャが融合したミッドテンポ・ナンバー。
“宇宙のように広がる愛”という比喩が繰り返され、
エロティックでありながらどこか孤独な響きを持つ。
当時のプリンスが感じていた“現実からの逃避願望”が反映されているかのようだ。
3曲目:Pheromone
タイトル通り、“フェロモン”=性的本能をテーマにした妖しいファンク。
低音のグルーヴとサンプリングが絡み、
聴く者を催眠的なトランス状態へと導く。
“欲望は支配か、それとも自由か”――その問いがリズムの中に潜んでいる。
4曲目:Loose!
インダストリアルなドラムサウンドと叫ぶようなヴォーカルが印象的な曲。
従来のプリンス・ファンクとは異なる、荒々しく機械的なグルーヴを展開する。
“自分を解き放て”というメッセージが、
まさに彼のレーベルへの抵抗を象徴しているかのようだ。
5曲目:Papa
異色の語り曲。虐待を受ける少年の視点から描かれ、
「パパが泣いた日、ぼくは強くなった」と呟く声が痛烈に響く。
自伝的とも受け取れる内容であり、
プリンスの内面に潜むトラウマと、その克服への祈りがこめられている。
彼のディスコグラフィの中でも最も重く、深い闇を描いた楽曲のひとつ。
6曲目:Race
ファンクとヒップホップが融合した社会派トラック。
“肌の色ではなく魂の色で生きろ”というメッセージが繰り返される。
公民権運動の延長線上にあるスピリットを、
ダンスミュージックの形で表現している。
プリンスの政治的意識が明確に現れた稀有な曲である。
7曲目:Dark
タイトル通り、闇と静寂に包まれた美しいスロウ・バラード。
メロディは穏やかだが、内側には孤独と絶望が潜む。
“僕の心は光を失った”という告白のような歌詞が、
プリンスの精神状態を象徴する。
しかし終盤、淡い光のようなコードが流れ、救済の予感も漂う。
8曲目:Solo
アカペラに近い構成で、プリンスの声だけが虚空に響く。
「神よ、あなたはまだ僕を見ているのか」という問いかけが続き、
まるで懺悔のようなトーンで終わる。
『Come』の核心――“人間としての終焉”――が最も明確に表現された曲である。
9曲目:Letitgo
アルバム中で最もキャッチーなナンバーで、
リードシングルとしてもヒットを記録した。
“すべてを手放せ”というタイトルの通り、
過去、名声、肉体、欲望――すべてを浄化していくような内容。
明るいメロディの中に、悟りのような静けさが漂う。
10曲目:Orgasm
ラストを飾るのは、リサ・コールマンの喘ぎ声をサンプリングした衝撃的なトラック。
文字通り、アルバム全体を“性的昇華=死”で締めくくる構成。
音楽がフェードアウトしていく瞬間、
まるで魂が肉体を離れていくような感覚を覚える。
この曲を最後に、プリンスという名は一度“終わり”を迎えるのだ。
総評
『Come』は、プリンスが“アーティストとして死に、シンボルとして生まれ変わる”過程を記録した作品である。
そのサウンドは、ファンクやR&Bの枠を超え、
ゴシックでジャズ的、時にインダストリアル的な実験精神に満ちている。
一聴するとダークで退廃的だが、実際には“再生”を描いたスピリチュアルな作品なのだ。
『Come』というタイトルは、“到達”と“死”の二重の意味を持つ。
それは肉体の頂点と精神の解放の同時到達を示しており、
アルバム全体が生と死の儀式のように構成されている。
音楽的にも、90年代のNPG期とは異なり、より孤高で個人的なトーンが支配する。
ホーン・セクションを最小限にし、
ベースとヴォーカル、リズムの呼吸によって構築された空間的サウンドは、
“沈黙の中に官能がある”というプリンスの新境地を示している。
当時の批評家は“重すぎる”“商業的でない”と評したが、
のちに本作は“プリンス最後の本当のプリンス・アルバム”として再評価される。
彼がレーベルと袂を分かつ直前に残したこの作品は、
まるで自らの遺書のように、孤独で、崇高で、痛々しくも美しい。
おすすめアルバム(5枚)
- The Gold Experience / The Artist Formerly Known as Prince (1995)
本作の“再生”を描く続編的アルバム。希望と輝きに満ちた対照的作品。 - The Black Album / Prince (1987/1994)
『Come』の“闇”の原点。禁断と解放の二重構造を持つ。 - Sign “☮” the Times / Prince (1987)
社会的・精神的テーマの基盤を築いたプリンス最高傑作。 - Erotic City / Prince (1984)
エロスと霊性を融合した初期の象徴的楽曲。 - The Downward Spiral / Nine Inch Nails (1994)
『Come』と同時期に生まれた“死と再生”のインダストリアル的対位。
制作の裏側
『Come』は、1993年から1994年にかけてペイズリー・パーク・スタジオで録音された。
当時プリンスは契約上、ワーナーに一定数のアルバムを提供する義務があり、
そのため本作を“過去の自分の葬送曲”として意図的に提出したとされる。
しかし、単なる契約消化ではなく、
彼の精神的危機と創造欲が極限で交わった作品でもある。
プロデュース、演奏、アレンジのほぼすべてを自ら手がけ、
孤独なスタジオワークの中で“自己消滅”を音に変えたのだ。
歌詞の深読みと文化的背景
本作は、性愛を通して死を見つめ、死を通して愛を見つめる――
まるで宗教的な瞑想のような詩的世界を持つ。
「Papa」では暴力と赦しの関係を描き、
「Letitgo」では自己解放の悟りを歌い、
「Solo」では神との対話を通して“人間としての限界”を悟る。
すべての曲が、“肉体の限界”と“魂の持続”という二つのテーマを巡っている。
社会的には、90年代初頭のアメリカは暴動・格差・人種問題が再燃し、
人々は“現実からの逃避”と“スピリチュアルな救済”の両方を求めていた。
『Come』はその時代の空気を鋭く反映し、
個人の欲望と社会の崩壊を鏡のように映し出した。
ビジュアルとアートワーク
ジャケットには、ロンドンのケンジントン墓地で撮影されたプリンスが登場する。
墓石の前に立つその姿は、まさに“死者の再生”を暗示している。
アルバムタイトルの“Come”は墓標の上に刻まれており、
“終わりと始まり”を同時に象徴する。
ブックレットの中には、“Prince 1958–1993”という偽の命日が記されており、
それは彼自身が“プリンスという存在を葬った”ことを明確に示している。
『Come』とは、プリンスが肉体と名声を脱ぎ捨て、
“象徴”として生まれ変わるための葬送曲である。
そこには、性愛と死、罪と赦し、闇と光がひとつに溶け合い、
彼の芸術人生の“終わりのはじまり”が刻まれているのだ。



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