
発売日: 1996年5月6日
ジャンル: ブリットポップ、インディーロック、オルタナティヴ・ポップ
概要
『The It Girl』は、イギリスのバンドSleeperが1996年にリリースしたセカンド・アルバムであり、
前作『Smart』で築いた都会的で知的なブリットポップのスタイルを、さらに洗練させポップ化した“成熟の記録”である。
タイトルの「It Girl」は、1920年代に流行した“魅力と話題性を併せ持つ女性”を指す言葉であり、
同時に90年代UK音楽シーンにおける女性像のステレオタイプやメディア的消費のあり方に対する皮肉とも読める。
本作では、前作以上にキャッチーでメロディアスな楽曲が揃い、
ルイーズ・ウェナーのリリックもよりシニカルで自信に満ちた語り口へと進化している。
アルバムは全英チャート5位を記録し、シングル「Sale of the Century」や「Statuesque」は高い人気を獲得。
Sleeperは“OasisやBlurと同時代にあって、ポップでフェミニンな代弁者”として重要な位置を確立した。
全曲レビュー
1. Lie Detector
スリリングなギターとテンポの速い展開が印象的なオープナー。
“嘘発見器”というモチーフが、人間関係の欺瞞と暴露の心理ゲームを象徴する。
2. Sale of the Century
本作最大のヒット曲であり、「愛さえあれば全てが買える?」という皮肉をポップに歌った名曲。
ルイーズの切れ味ある歌詞と明るく弾けるアレンジの対比が魅力的。
3. What Do I Do Now?
センチメンタルで美しいミディアム・テンポのナンバー。
別れのあとに残る“空白”をテーマに、感情を整理できない心のゆらぎが繊細に描かれる。
4. Good Luck Mr Gorsky
宇宙飛行士と家庭の断絶をテーマにしたユニークなコンセプトソング。
日常と非日常の落差を、比喩的に用いたストーリーテリングの妙が光る。
5. Feeling Peaky
スラング的なタイトル(=体調がすぐれない)通り、不安と軽躁の間を揺れる心情をダンサブルに表現。
ギターとドラムの緊張感が中毒的。
6. Shrinkwrapped
表面的な包装=人間関係の“ラッピング”を皮肉るリリック。
都会的な疎外感と消費文化への批判を軽やかに伝える、知的なギターポップ。
7. Dress Like Your Mother
“母親みたいな格好をして”というフレーズが突き刺さる。
女性の世代間ギャップや価値観の継承・拒絶という深いテーマを、ポップな笑いに転化している。
8. Statuesque
シングルカットもされたポップ・チューン。
“彫像のような”という比喩が、恋人の冷たさと孤立を物語る切ないラブソング。
9. Glue Ears
耳にくっついた接着剤のように離れない、という奇抜なイメージが印象的。
恋愛における未練や執着をユーモラスに描く小品。
10. Nice Guy Eddie
男女関係のすれ違いと役割の皮肉を描いた一曲。
“いい人”という言葉の曖昧さと欺瞞を、スピーディなロック・サウンドで撃ち抜く。
11. Stop Your Crying
本作でもっともエモーショナルな一曲。
“泣かないで”という繰り返しが、抑圧された感情の爆発を寸前で留めるような緊張感を持つ。
12. Factor 41
アルバムを静かに締めくくるナンバー。
数値化された何か=人間性の欠落?と読める、冷たい余韻と静かな怒りが宿る楽曲。
総評
『The It Girl』は、Sleeperにとって“ブリットポップ・バンド”というレッテルを超え、
“知的で皮肉屋なソングライター集団”としての真価を示したアルバムである。
サウンド面では前作よりも磨きがかかり、
ラフさよりもメロディの完成度と構成の巧みさが際立つ作品となっている。
とはいえ、毒や皮肉、都市生活への違和感といった“彼ららしさ”は全く失われておらず、
むしろポップさと鋭さの“二刀流”として完成された印象を与える。
ルイーズ・ウェナーの歌詞は、恋愛や社会の中で女性が直面する「違和感」を、
声高に主張せず、むしろ洒脱な比喩とポップな言葉で切り取るスタイルが確立されている。
それは、90年代のポップミュージックが可能にした“静かなるフェミニズム”の形の一つだろう。
おすすめアルバム
- Saint Etienne / Good Humor
洗練されたポップの中に知性とアイロニーを感じさせる共通点。 - Catatonia / International Velvet
女性ヴォーカルが社会性と個人性を往還する90年代UKロック。 - Juliana Hatfield / Only Everything
等身大の女性像と恋愛の皮肉を描くソングライティングの妙。 - The Cardigans / First Band on the Moon
メロディの甘さとリリックの毒が同居する北欧版It Girl的ポップ。 - Echobelly / On
ブリットポップ文脈における女性像の問い直しを行った対照的存在。
歌詞の深読みと文化的背景
『The It Girl』に通底するテーマは、“演じられる女性性”と“それに気づきながらも適応する自己”の分裂的構造である。
「Sale of the Century」では、愛さえも消費の対象として扱われ、
「Dress Like Your Mother」では、世代を超えたジェンダー観の押し付けに対する反発が描かれる。
また、「Statuesque」のような一見ラブソングに見える曲も、
“見られること”と“感じられないこと”の間にある女性の孤独を言語化しており、
それは90年代における“ポップの文法”を用いた社会批評とも言える。
ルイーズ・ウェナーは、文学的素養を活かしながら、
“誰もが分かる言葉”で“誰も語らなかった心情”を表現するユニークな語り手だった。
『The It Girl』は、その語りが最もポップとして昇華された傑作なのである。
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