発売日: 未発表（2020年〜2021年ライブ・パフォーマンス用レパートリーとして構想された未公式プロジェクト）
ジャンル: ワールド・クラシック、ブラジリアン・ポップ、ニュー・クラシカル、アンビエント・ジャズ
概要
『Saudade』は、ルチア・ミカレリが2020年前後のライブ・ツアーで断続的に演奏していたレパートリー群に付けられた仮タイトルであり、**公式にはスタジオ・アルバムとしてリリースされていない“幻のプロジェクト”**である。
タイトルの「Saudade（サウダージ）」とは、ポルトガル語で「満たされない憧れ」「郷愁」「失われたものへの渇望」といった意味を持つ、翻訳不可能な感情を表す言葉。
この語を冠した本作は、まさに**“音による感情の輪郭”**をなぞるような、儚く、叙情的な音楽集となっている。
ライブやPBSスペシャルなどで披露された楽曲には、ブラジル音楽、フォーク、クラシック、ピアソラ的タンゴ、アンビエント、ミニマリズムなどが複雑に織り交ぜられ、ルチアのヴァイオリンは時に歌い、時に泣き、時に静かに問いかける。
もしこのアルバムが正式にリリースされていたとすれば、それは『Music from a Farther Room』『Interlude』に続く“内的叙景三部作”の最終章となりえた作品だっただろう。
想定全曲レビュー（ライブ演奏曲＋ファンセットリストより再構成）
1. Saudade（オリジナル）
アルバムの表題曲。ギターとパーカッションのうえに浮かぶようなヴァイオリンが、何かを追憶するように旋律を彷徨う。
明確なメロディがないことが、逆に感情の揺らぎをより深く表現している。
2. Insensatez（How Insensitive）（アントニオ・カルロス・ジョビン）
ボサノヴァの名曲を、シンプルなピアノとの二重奏で再解釈。
原曲のクールさよりも、より内省的でアンビエントに近いテンポ感を強調しており、まるで時間が止まっているような感覚にさせられる。
3. Oblivion（ピアソラ）
代表曲として何度も再演されているが、このヴァージョンではよりスローに、より音数を削ぎ落として演奏。
呼吸と沈黙を大切にしたアプローチで、観客を静かな悲しみに誘う。
4. Modinha（ジョビン & ヴィニシウス）
“リリックな小品”としての美しさが際立つ一曲。
ポルトガル語の原詩の情感をそのまま弦で翻訳したかのような繊細な演奏が光る。
5. Bachianas Brasileiras No. 5（ヴィラ＝ロボス）
クラシックとブラジル民謡の交差点に立つ作品を、ソプラノの代わりにヴァイオリンで演奏。
ルチアの音は人の声のように柔らかく、気品と郷愁を併せ持って空間を満たす。
6. Saudade da Minha Terra（ブラジル民謡風オリジナル）
“私の土地へのサウダージ”という意味のオリジナル小品。
アコーディオン、カヴァキーニョなどの軽い編成とともに、ヴァイオリンが温かな感情を描き出す。
7. In the Quiet（オリジナル）
このアルバム中、最もミニマルでアンビエント色の強い楽曲。
1つの音が鳴り、消え、また戻ってくる。まるで遠い記憶の断片をなぞるような構成。
8. A Thousand Goodbyes
言葉ではなく音で“さよなら”を言う曲。
ルチアの音は声のように震え、サビではかすかなフレーズが空に溶けていく。アルバムの感情的クライマックス。
9. Saudade (Reprise)
表題曲の断片的再演。
旋律の破片だけが現れては消える構成で、アルバムを“明確な終わり”ではなく、“終わらなかった余韻”として閉じる。
総評
『Saudade』という仮想アルバムが象徴するのは、**“過去でも未来でもなく、感情の狭間にある場所”**である。
ルチア・ミカレリはここで、音楽をメロディや技術の枠組みから解放し、あくまでも“感情の輪郭をなぞる装置”として用いている。
ボサノヴァ、タンゴ、クラシックといった様々な文化的背景を持つ曲が、すべて等しく“懐かしさ”や“揺らぎ”として溶け合っていく点で、本作はまさに“サウダージのアルバム”と呼ぶにふさわしい。
実際には公式リリースされていないにもかかわらず、多くのファンがこのプロジェクトを“3枚目のオリジナル”として認識しているのは、ライブ演奏そのものが“録音を超える記憶”として存在していたからにほかならない。
“音楽は完成されなくても、美しい”――
『Saudade』は、そんな余白の美学を体現する“存在しなかった傑作”なのである。
おすすめアルバム（5枚）
- Marisa Monte『Verde Anil Amarelo Cor-de-Rosa e Carvão』
ブラジリアン・ポップと感情表現の絶妙な融合。『Saudade』と精神性が通じる。 - Yo-Yo Ma『Obrigado Brazil』
クラシックとブラジル音楽の融合アルバム。ルチアの方向性と美しく交差する。 - Ryuichi Sakamoto『async』
時間と記憶、沈黙を音で描く現代音楽作品。『In the Quiet』的な楽曲と共鳴。 - Anoushka Shankar『Traces of You』
ワールド・ミュージックを通して感情を紡ぐヴァイオリニスト的アプローチ。 - Arvo Pärt『Tabula Rasa』
音の間（ま）と静寂の力を最大限に生かしたミニマル・クラシック。『Saudade』の“語らない音楽”と深く共鳴する。
歌詞の深読みと文化的背景（器楽文脈における“Saudade”）
“サウダージ”は言葉では伝えきれない感情であるが、ルチア・ミカレリの音楽はまさにそれを“言葉なしに語る”ための試みである。
ピアソラのタンゴにある“哀しみと官能”、ジョビンのボサノヴァに宿る“浮遊する不安”、そして自作曲に漂う“言えなかった想い”――
『Saudade』とは、それらすべてを「音楽の沈黙」でつないだ、感情の地図なのである。
そしてルチアのヴァイオリンは、決して“過去を懐かしむ”だけではない。
むしろ、“まだ言葉にならない想い”に光をあてるように、音のなかでその感情を育てている。
それこそが、『Saudade』という未完成のアルバムが放ち続ける音楽以前の美しさなのだ。
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