
発売日: 1969年7月27日
ジャンル: サイケデリック・ロック、フォーク・ロック、アヴァンギャルド
概要
『More』は、ピンク・フロイドが1969年に発表したサウンドトラック・アルバムであり、
映画『More』(監督:バーベット・シュローダー)のために制作された作品である。
このアルバムは、バンドにとって初の映画音楽作品であり、
同時に『A Saucerful of Secrets』(1968)で築いた実験的な音響世界をさらに拡張した意欲作でもある。
映画自体は、ヨーロッパを放浪する青年がドラッグと破滅に溺れていくというストーリーで、
当時のカウンターカルチャーの光と影を象徴していた。
ピンク・フロイドはその映像世界に合わせて、サイケデリックなロック、アコースティック・フォーク、
インストゥルメンタルの環境音楽的トラックなど、多彩な楽曲を制作。
結果として、本作は“映画のための音楽”でありながら、
のちの『Meddle』(1971)や『Wish You Were Here』(1975)を予感させる実験と感情の調和を見せている。
アルバム全体には、南欧の乾いた空気、孤独、享楽、そして静かな終焉が漂っている。
それは当時の若者文化の退廃と美を同時に描き出した、
1969年という時代を象徴するドキュメントでもあった。
全曲レビュー
1曲目:Cirrus Minor
穏やかなアコースティック・ギターと鳥のさえずりで始まる幻想的なオープニング。
まるで森の中で目を覚ますような静けさが広がり、リック・ライトのオルガンが天上の響きを添える。
歌詞には死や夢のモチーフがあり、アルバム全体の“終末の美”を先取りしている。
2曲目:The Nile Song
突如として轟音ギターが炸裂する、ピンク・フロイド屈指のハードロック・ナンバー。
ロジャー・ウォーターズ作曲、デヴィッド・ギルモアが荒々しく歌い上げる。
初期フロイドとしては異例の直情的な攻撃性を見せ、後のハードロック勢にも影響を与えた。
3曲目:Crying Song
メランコリックなアコースティック・バラード。
ギルモアの柔らかな歌声と、ライトのメロトロンが織りなすサウンドは、
失恋や後悔といった普遍的な感情を穏やかに描く。
アルバム中でもっとも叙情的な一曲。
4曲目:Up the Khyber
インストゥルメンタル・トラック。
リック・ライトとニック・メイスンの即興的な演奏が中心で、
テンポの変化や不協和音が混じり合う実験的なジャズ・ロック調。
映画の緊張感を支える“心理的BGM”としての役割を果たしている。
5曲目:Green Is the Colour
穏やかなフォーク・ソング。
歌詞には“緑は彼女の色”という象徴的な一節があり、純粋さと破滅の対比を暗示している。
ギルモアのアコースティック・ギターとフルートの音色が、
ヨーロッパの午後の光を思わせる柔らかさを持っている。
6曲目:Cymbaline
夢と現実の境界を揺らめくような楽曲。
映画の中ではドラッグ体験を象徴する場面に使われ、
“Your head is on fire”というフレーズが、幻覚的な感覚を詩的に表している。
ライブでは長く演奏され、後の『Echoes』にも通じる構成美を見せる。
7曲目:Party Sequence
短いパーカッション中心のトラック。
アフリカ的なリズムが印象的で、映像の“享楽的な宴”を彩る。
リズムと呼吸だけで情景を描く、サウンドトラックならではの一曲。
8曲目:Main Theme
アルバムの中核を成すインストゥルメンタル。
低音のドローンと電子的なエコーが交錯し、まるで空気そのものを音にしたような静謐さを持つ。
“スペース・ロック”という言葉がもっともふさわしい音響実験。
これ以降のピンク・フロイドが進む音の方向性を決定づけた重要な楽曲である。
9曲目:Ibiza Bar
『The Nile Song』と対をなすハードロック曲。
ドラッグや快楽の裏にある空虚さを感じさせる。
荒れ狂うギターリフと暗い歌詞の対比が、映画のテーマを音で体現している。
10曲目:More Blues
タイトル通りのブルース・インストゥルメンタル。
ジャム・セッション的な要素が強く、緊張感よりも脱力感が漂う。
ギルモアのギターが自由に歌い、ピンク・フロイドの“人間的な一面”がのぞく瞬間だ。
11曲目:Quicksilver
ミニマルでアンビエントな曲。
波打つようなオルガンと持続音が続き、時間感覚が曖昧になる。
ブライアン・イーノのアンビエント以前に、すでに“空間音楽”を提示していた点で非常に先駆的である。
12曲目:A Spanish Piece
ギルモアによるギター独奏に、ささやくような声が加わる小品。
スペイン風の旋律と幻想的な語りが、映画の舞台を示す“地中海的ムード”を描く。
13曲目:Dramatic Theme
締めくくりのインストゥルメンタル。
ギルモアのギターとメイスンのドラムが穏やかに絡み合い、
“物語の終焉”を静かに見届けるように消えていく。
映像的なアルバムを締めるにふさわしいエンディングだ。
総評
『More』は、ピンク・フロイドが映画音楽を通じて自らのアイデンティティを探った実験的作品である。
それは単なるサウンドトラックではなく、
「ロック・バンドが映画というメディアで何を表現できるか」という問いへの挑戦でもあった。
サウンドは、『A Saucerful of Secrets』で芽生えた前衛性をさらに発展させ、
フォーク、ブルース、ジャズ、アンビエント、ハードロックなどが混在している。
この多様性は、後に『Ummagumma』(1969)や『Meddle』(1971)で結実する“音楽的多面性”の萌芽と言える。
また、歌詞や楽曲の雰囲気には“南欧の退廃と孤独”が漂い、
当時のヒッピー文化の終焉を暗示するようでもある。
『More』は、理想の終わりと現実の苦味を音で描いた「青春の残響」なのだ。
実験性と叙情性のバランスは、まだ完全ではない。
しかしその不完全さこそが、この時期のピンク・フロイドの魅力であり、
彼らが後に“完璧なコンセプト・バンド”となるまでの過程を感じさせる。
おすすめアルバム
- A Saucerful of Secrets / Pink Floyd
精神の崩壊と再生を描いた前作。『More』への前段階として重要。 - Ummagumma / Pink Floyd
ライブと実験を分離した二枚組。『More』の発展形といえる。 - Meddle / Pink Floyd
サウンドトラック的要素が完成形を迎えた1971年の傑作。 - Obscured by Clouds / Pink Floyd
『More』と同じシュローダー監督映画のサントラ。より成熟したサウンドを聴ける。 - Atom Heart Mother / Pink Floyd
オーケストラとの融合による壮大なサウンドスケープ。ピンク・フロイドの次なるステップを示す。
制作の裏側
本作の録音は、ロンドンのPye StudiosとAbbey Road Studiosで行われた。
当初は映画用に即興的に作曲されたため、バンドは1週間という短期間で全13曲を完成させた。
監督のバーベット・シュローダーは「彼らは映画を理解するより先に音で映画を描いた」と語っている。
ギルモアは映画のシーンをモニターで見ながらギターを弾き、
ライトはシンセやオルガンで空間を構築。
一方のウォーターズは、映画の主題である“依存”と“自由”を意識して歌詞を書いたという。
『More』はその後、ピンク・フロイドが映像と音響を融合させる方向へ進むきっかけとなり、
後の『The Wall』映画版やライブ演出の原点とも言える作品となった。
このアルバムは、「音が物語を語る」ことに挑んだ最初のピンク・フロイドなのだ。



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