発売日: 1987年9月7日
ジャンル: プログレッシブ・ロック、アート・ロック、ニュー・ウェイヴ
概要
『A Momentary Lapse of Reason』は、ピンク・フロイドが1987年に発表した通算13作目のスタジオ・アルバムであり、
ロジャー・ウォーターズ脱退後、デヴィッド・ギルモア主導の新生ピンク・フロイドとして再出発を果たした作品である。
タイトルの“瞬間的な理性の喪失”という言葉は、
ウォーターズ離脱によるバンドの危機、そして再生への不安と意志を象徴している。
制作にあたってギルモアは、“ウォーターズなしでもフロイドは存続できるのか”という重圧を背負いながら、
音楽的にも精神的にもバンドを立て直す使命を担った。
結果として生まれたのは、80年代的サウンドデザインと70年代フロイドの叙情性が融合した過渡的傑作である。
当時のデジタル・レコーディングやシンセサイザーの質感が色濃く反映され、
それでいてギルモアのギターとメロディが“人間の温度”を取り戻している。
このアルバムは、ピンク・フロイドの名義を守るための“再起の証明”であり、
同時にギルモア自身の芸術的自立宣言でもあった。
全曲レビュー
1曲目：Signs of Life
環境音とギター・エコーが溶け合うアンビエント的なオープニング。
水面の波紋のように揺れる音の層が、“静寂からの再生”を象徴している。
ウォーターズの不在を埋めるように、ギルモアは音そのものの存在感を前景化した。
この曲は“沈黙を音に変える”というフロイドの伝統を新時代に継承している。
2曲目：Learning to Fly
アルバムを代表するシングル曲。
タイトルが示すように、“飛ぶことを学ぶ”＝“再び歩み始める”という意味が込められている。
ギルモアの伸びやかなヴォーカルと空を切り裂くようなギター・サウンドが印象的で、
再生と自由へのメタファーとして完璧に機能している。
シンセとドラム・マシンのリズムも、80年代的疾走感を巧みに取り込んでいる。
3曲目：The Dogs of War
重厚なベースとマーチング・ドラムが支配する政治的トラック。
冷戦期の軍事産業を暗喩した歌詞は、ウォーターズ期の社会批判を継承しながら、
ギルモア流の冷静な観察へと変化している。
サックスの咆哮が戦争の混乱を象徴するように響き、ダークな魅力を放つ。
4曲目：One Slip
8分の6拍子の流れるようなリズムに乗せて、
“人生の綻び”を描くシンセ・ロック。
ギルモアのギター・トーンは透明感があり、
光の中に滑り落ちるような感覚を伴う。
歌詞は、偶然の出会いと運命の皮肉を描き、
アルバムの“時間と選択”というテーマを浮き彫りにしている。
5曲目：On the Turning Away
静かなイントロから壮大に展開するバラード。
「他人の痛みに背を向けるな」というメッセージを持つ社会的メッセージソング。
ギルモアのギター・ソロは、慈愛と悲しみを湛えた名演で、
ライブでも長く演奏され続けた。
この曲は、ピンク・フロイドが“感情の普遍性”を取り戻した瞬間でもある。
6曲目：Yet Another Movie / Round and Around
幻想的なサウンドスケープに包まれた二部構成曲。
“Yet Another Movie”では、孤独と時間の流れがテーマとなり、
ドラムとベースのグルーヴが心拍のように刻まれる。
後半の“Round and Around”では、同じモチーフがインストゥルメンタルで繰り返され、
輪廻や記憶の循環を象徴している。
7曲目：A New Machine (Part 1)
ギルモアの加工されたヴォーカルのみで構成された短い小曲。
機械の声のようでありながら、内面の痛みを感じさせる。
人間性とテクノロジーの境界を曖昧にする、この時代特有の“機械的孤独”が主題だ。
8曲目：Terminal Frost
インストゥルメンタル。
サックスとギターが絡み合う旋律は、冷たい霧の中に浮かぶような美しさを持つ。
リック・ライト不在の中でも、フロイドらしい“音の詩情”を感じさせる瞬間である。
9曲目：A New Machine (Part 2)
Part 1の再登場。
声の孤独が再び響き、やがて次の曲へと滑らかに接続する。
この短いインタールードがアルバムの“時間的円環”を補完している。
10曲目：Sorrow
アルバムの締めくくりにふさわしい壮大なナンバー。
深く歪んだギターのイントロは、まるで雷鳴のようにアルバム全体を貫く。
歌詞は、文明の虚無と個人の孤立を描き、ウォーターズ不在のフロイドが“存在の痛み”を独自に再定義している。
ギルモアの長大なギター・ソロは圧巻で、静と動の美学が完璧に結実している。
総評
『A Momentary Lapse of Reason』は、ピンク・フロイドが崩壊から再生へと歩み出したアルバムである。
ウォーターズの去った後、ギルモアが舵を取り、音楽的方向性を再設定した。
その結果生まれたのは、70年代の哲学的・構築的ロックではなく、
感情と音響のバランスを重視した“新時代のピンク・フロイド”だった。
80年代特有のデジタルサウンドやドラム・マシンの質感が、
古典的プログレとは一線を画す新鮮な響きを与えている。
『The Final Cut』の“個の嘆き”から一転、
本作では“再出発の希望”がテーマとして流れる。
「Learning to Fly」や「On the Turning Away」はその象徴であり、
ギルモアのヴォーカルがこれまで以上に感情豊かに響く。
音楽的完成度は決して完璧ではない。
一部の評論家は“フロイド名義のソロ作”と評した。
だが、それこそがこのアルバムの価値である。
“理性の喪失”というタイトルの通り、
理屈を超えて“もう一度音楽を信じよう”とする人間の衝動が詰まっている。
ライブでは『Delicate Sound of Thunder』（1988）で大きな成功を収め、
ピンク・フロイドが再び世界のステージに帰還する礎となった。
本作は、失われた時代を越えて音楽が再生する――その奇跡の瞬間を記録した作品なのだ。
おすすめアルバム（5枚）
- The Division Bell / Pink Floyd
ギルモア主導期の完成形。より成熟した叙情と哲学を備える。 - The Final Cut / Pink Floyd
対照的にウォーターズ主導の最終章。理念と感情の対比が興味深い。 - On an Island / David Gilmour
ギルモアのソロ作。『A Momentary Lapse of Reason』以降の美学が結晶化。 - 1984 / Anthony Phillips
80年代プログレの洗練を共有する隠れた名盤。 - Power Windows / Rush
同時代のシンセ・ロックとして本作と比較すると音響思想の共通点が見える。
制作の裏側
録音はギルモアの自家スタジオであるアストン・クルント・ハウス号（船上スタジオ）で行われた。
長年のフロイド技師ボブ・エズリンがプロデュースを担当。
リック・ライトは当初正式メンバーではなかったが、セッションに参加し、のちに復帰を果たす。
ギルモアは楽曲のほとんどを単独で作曲し、
シンセやドラムマシン、デジタルエフェクトを駆使して現代的なサウンドを構築。
この“孤独な制作環境”が、アルバムに独特の緊張感と透明感を与えている。
歌詞の深読みと文化的背景
1987年のイギリスは、サッチャー政権下で社会的分断が深まり、
冷戦末期の不安とテクノロジーの加速が交錯していた。
“Learning to Fly”の自由への渇望、“The Dogs of War”の権力批判、
“On the Turning Away”の共感への呼びかけ――
それらはすべて、“人間性の回復”という普遍的テーマに通じている。
『The Final Cut』で語られた“戦後の幻滅”の先に、
『A Momentary Lapse of Reason』は“再び生きる勇気”を提示した。
それはピンク・フロイド自身の再生でもあり、
時代の傷を癒やすための音の処方箋でもある。
ビジュアルとアートワーク
ストーム・ソーガソンによるジャケットは、
砂漠の海岸にずらりと並ぶ無数のベッドという超現実的な光景。
これは戦場での記憶、夢、愛、そして孤独を象徴している。
空の光と水平線の奥行きが、“心の遠景”を静かに描き出す。
その幻想的構図は、“眠りから覚める瞬間＝再生”というテーマを視覚的に表しており、
まさにアルバム・タイトルの具現化である。
『A Momentary Lapse of Reason』は、ピンク・フロイドが
崩壊した理性を取り戻し、再び光を見つけた瞬間の記録である。
それは喪失の後に訪れる、静かで確かな希望の音なのだ。
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