
発売日: 2005年1月
ジャンル: ビッグ・ビート、エレクトロニカ、ダンス・ロック
『Push the Button』は、The Chemical Brothersが2005年に発表した5作目のスタジオ・アルバムである。
90年代、彼らは『Exit Planet Dust』『Dig Your Own Hole』でビッグ・ビートの象徴的存在となり、ロックとクラブ・カルチャーの橋渡し役としてUKシーンを牽引した。
2000年代に入ると『Surrender』『Come with Us』でアシッド・ハウスやサイケデリック、そしてポップス方面への“開かれた”ケミカルを提示し、フェスでもクラブでも機能するダンス・ミュージックを作るグループとして不動の地位を得る。
そんな彼らが2005年に選んだのは、再びリズムとサンプルの“強度”を前面に押し出し、ゲスト・ボーカルを大胆にフィーチャーしながら、同時代のポップ/ロックとも接続する方向だった。
要するに本作は、“ポスト・ビッグ・ビート時代のケミカル・ブラザーズが、なおも主役を張れることを証明した1枚”なのだ。
制作当時のUKは、エレクトロニック・ミュージックが00年代仕様へと更新されていた時期で、The Streets や Dizzee Rascal のようなグライム勢、あるいはNew Orderのリバイバル的な動き、さらにロック側ではFranz FerdinandやKaiser Chiefsといったギター・バンドがダンスフロアを意識したビートを鳴らし始めていた。
そうした“バンドも踊れる曲をやるし、ダンス勢もポップに寄る”という時代において、ケミカルはもともとその交差点にいたアクトなので、むしろ条件が整ったとも言える。
『Push the Button』はその文脈を的確につかまえ、ラップ、サイケ、インド音楽的要素、ファットなブレイクビーツを一気に飲み込んだ。
その結果、アルバムは全体として非常にカラフルで、“これぞケミカル”という瞬間と、“あれ、ここまで歌モノ寄りにするんだ”という瞬間がめまぐるしく現れる構成になっているのである。
全曲レビュー
1曲目:Galvanize (feat. Q-Tip)
本作最大のキラーチューンにして、2000年代ケミカルの代表曲。
A Tribe Called QuestのQ-Tipを迎え、アラブ~モロッコ音楽を思わせるストリングス的サンプルをがっつりループし、その上に重いブレイクとラップを乗せる――という、ワールド・ミュージックとヒップホップとビッグ・ビートを一挙にまとめたトラックである。
“Don’t hold back!”という印象的なシャウトが曲全体を牽引し、フェスのアンセムとしてもクラブのピークタイムとしても機能する。
ここで重要なのは、90年代的ブレイクビーツの手触りをそのままに、2000年代のラジオでも鳴る音圧に仕上げている点で、この一曲だけでも当時のケミカルが“メインストリームと地下のどちらにも届く”位置を狙っていたことがわかる。
2曲目:The Boxer (feat. Tim Burgess)
Charlatansのティム・バージェスをフィーチャーしたポップ寄りのナンバー。
“ボクサー”というタイトルどおり、打たれても立ち上がる主人公の姿を、やわらかなメロディとともに描き出す。
ビートはヘヴィだが、ヴォーカルがドリーミーなので、ケミカルの中でも聴きやすい部類に入る。
ここでバンド的な歌モノを平然とやってしまうところに、彼らの“ダンス・ミュージック=クラブ専用”という枠をとうに越えている余裕が見える。
3曲目:Believe (feat. Kele Okereke)
Bloc Partyのケレが参加したことで知られる、エレクトロ・パンク寄りの強力なトラック。
機械的でザラザラしたシンセが終始鳴り、そこにケレの緊張感あるヴォーカルが乗ることで、ポストパンク~ニューウェーブのエッジとクラブ・トラックのパワーが一つになっている。
2000年代中盤にロックとダンスが再び接近していた空気──いわゆる“インディー・ディスコ”の文脈──を象徴する一曲であり、同世代のギター・バンドにとっても好ましい接ぎ木のされ方だったはずだ。
4曲目:Hold Tight London
タイトルに“London”とあるように、ややシネマティックで風景的なトラック。
うねるシンセ・パッドとビートの上を、夢見心地の女性ヴォーカルが漂う。
アルバム前半の攻撃的な3曲から、ここで一度視界を広げる役割を果たしており、ケミカルが単に“デカいビートを鳴らす人たち”ではなく、空間をデザインする力量を持っていることを改めて示している。
『Surrender』でのサイケポップ路線が好きなリスナーにはとても刺さる曲である。
5曲目:Come Inside
ループ感の強いエレクトロ・トラック。
低音が丸く、ミニマルに近い構成で、踊るためのグルーヴを前面に出している。
このあたりで“アルバムとしてのクラブ濃度”を上げ、前後の歌モノとのバランスを取っているのがうまい。
6曲目:The Big Jump
タイトルどおり跳ねるリズムが気持ちいい、ダンスロック寄りの一曲。
ギター・リフ的なシンセが前に出て、ブレイクで一気に引き込んでからまた突っ込む、というフェス映えする展開を持つ。
2000年代のケミカルがライブ・アクトとして強かった理由はまさにこうした曲にあり、シンプルで反復的なのに、ちゃんと曲としてのカタルシスがある。
7曲目:Left Right (feat. Anwar Superstar)
ヒップホップ寄りのトラックで、政治的なニュアンスをにじませるリリックをラガ的なビートに乗せている。
“Left, right, left, right…”という掛け声的なフレーズはミリタリーな印象もあり、当時の国際情勢へのささやかな反応として読むこともできる。
ケミカルは基本的に直接的なプロテストをするグループではないが、リズムと声の配置だけで“引っかかり”を作るのがうまい。
8曲目:Close Your Eyes
やや内省的な曲で、女性ヴォーカルのやさしいメロディをフィーチャー。
アルバムを通して聴いたときに、ここで気持ちを落としてくれるのがありがたい。
ビートは控えめで、シンセのレイヤーが暖色系に寄っており、フロアよりリスニングを意識した設計である。
9曲目:Shake Break Bounce
タイトルどおり、シンプルに踊らせるためのブレイクビーツ。
細かく刻まれたドラムと短いサンプル、そして子どもがはしゃぐようなテンションのリフが続く。
アルバムの中で最も“90年代のケミカルに直結してるな”と感じる瞬間かもしれない。
10曲目:Marvo Ging
サイケデリックで、アシッド色の強いインスト。
“Push the Button”というタイトルが掲げる“スイッチを押すと世界がすこし変わる”感覚を音で表現したような、トリップ感のある一曲である。
ライブの中継部にも合いそうな、映像的な広がりがある。
11曲目:Surface to Air
ラストを飾るのは、徐々にビートが立ち上がっていく、アンビエント寄りの高揚曲。
“空へと向かう”というタイトルどおり、上へ、上へと音が積み上がっていき、アルバム全体の旅をやわらかく締める。
荒々しいビートから叙情的なサイケまで自在に振った後で、最後をこうした多幸感で閉じるのはケミカルらしい美学である。
総評
『Push the Button』は、The Chemical Brothersの作品群の中でも“最初に聴くならこれ”というタイプではないかもしれない。
初期のビッグ・ビートを味わうには『Dig Your Own Hole』があるし、ポップで開かれたケミカルなら『Surrender』がある。
しかし2000年代という時代のなかで彼らがどう自分たちのフォーミュラを更新したかを知るには、この2005年盤がとてもわかりやすい。
決定打となるシングル「Galvanize」を冒頭に置き、以降はロック寄りトラック、ヒップホップ寄りトラック、サイケな中盤、リスニング寄りの終盤と、11曲を映画的に配置している。
これは90年代後半の“DJがアルバムも作る”形式から、2000年代の“1枚で多様なリスナーに届くポップ・アルバムを作る”形式への転換でもある。
また、本作はゲストの使い方が非常に巧みである。
Q-Tipというヒップホップのレジェンドを一曲目で起用し、インディー・ロック側からはBloc Partyのケレを呼ぶことで、当時UKで起きていた“ギターとダンスの再接近”を一枚に凝縮してみせた。
これにより、ケミカルは“90年代の人”ではなく“2000年代の現役”としてカムバックを果たしている。
しかも彼らはゲストに寄りかかってはいない。土台となるビートやサンプル・メイク、音像の広がり方はあくまでケミカル印であり、誰が歌っても“ケミカルの曲”に聞こえる。
この“誰でも自分の色に染める”プロデュース力こそ、彼らが長く一線にいられた理由である。
2005年というと、エレクトロ・クラッシュがすでにピークを過ぎ、より洗練されたエレクトロ・ハウスやミニマルが支持を集めていた時期で、90年代的な“ドカンとしたブレイク”は古く見られがちだった。
それでも『Push the Button』が鈍らなかったのは、彼らが音量だけで突っ走るのではなく、リズムの細部やサンプルの質感を2000年代的にアップデートしていたからだ。
“古いビッグ・ビートの人ががんばってる”ではなく、“いま聴いても強いダンス・ミュージック”として成立している。
同時に、ラストの「Surface to Air」に象徴されるように、アルバムを“聴き終わった後の余韻”まで設計している点も見逃せない。
これはクラブ用のトラックメイカーにはなかなかできない芸当であり、いかに彼らが“ポップ・ミュージックとしてのアルバム”にこだわっているかが伝わるところである。
さらに言えば、このアルバムはThe Chemical Brothersの“多国籍性”が最もポジティブに出た一枚でもある。
「Galvanize」のモロッコ風サンプルにしても、「Left Right」のヒップホップ/ラガ的な声の使い方にしても、欧州のダンス・ミュージックがもともと持っていた“外の音を取り込む力”を、彼らが誇張ではなく自然な形で提示している。
当時、UKクラブ・シーンはパーティの現場で多様なルーツが入り混じるフェイズに入っていたが、『Push the Button』はその雰囲気をメジャーなスケール感でパッケージした作品と言っていい。
だからこそ、いま聴いても2005年当時の“世界がごちゃっと混ざりはじめていた”空気が一撃で立ち上がるのである。
おすすめアルバム(5枚)
- Dig Your Own Hole / The Chemical Brothers (1997)
ケミカルの爆発的初期衝動とビッグ・ビートの金字塔。『Push the Button』のルーツを知るならここ。 - Surrender / The Chemical Brothers (1999)
よりポップでサイケデリックな側面を楽しみたい人向け。メロディと開放感は本作と好相性である。 - Come with Us / The Chemical Brothers (2002)
2000年代ケミカルへの入り口として。『Push the Button』と並べるとポップ化の度合いがよくわかる。 - Since I Left You / The Avalanches (2000)
サンプルをコラージュして多国籍な祝祭感を出すという点で親和性が高い名盤。 - Bloc Party / Silent Alarm (2005)
「Believe」でのつながりをたどるなら同年のこれ。ロックとダンスの接続点を別角度から確認できる。
6. 制作の裏側
『Push the Button』の制作では、彼らが得意とするアナログ寄りのシンセや、70年代~中東音楽の音階を思わせるサンプルがふんだんに使われている。
これは単に“エスニックにしたい”というより、当時のクラブで実際に効いていた素材をスタジオで再構成した結果に近い。
Q-Tipとのコラボも、ヒップホップ側のニュアンスを崩さずにケミカルの音圧へ乗せるという難易度の高い作業で、ミックスは相当考え抜かれている。
また、アルバム全体を通して“ビートが飽きないように微細に変化する”よう設計されており、ヘッドホンで聴くと細かい加工の積み重ねに気づける。
ダンス・ミュージックの中でもかなり“手をかけた”部類に入る作品である。
7. 歌詞の深読みと文化的背景
“Push the button”という言葉そのものには、“スイッチを押す”“行動を起こす”“誰かを挑発する”といった複数の意味がある。
2000年代初頭はテロ以降の緊張、イラク戦争、監視社会の進行といった背景があり、“ボタン一つで世界が変わる”という比喩が現実味を帯びていた時代だった。
ケミカルはそれを直接的に政治の言葉にするのではなく、パーティや人間関係、都市生活の中での“ボタンを押す瞬間”として翻訳している。
「Galvanize」の“Don’t hold back!”も、“いまこそ踏み出せ”というポジティブな意味と、“やるならやれ”という挑発の二面性を持っている。
こうした多義性が、本作のリリックを単なるクラブ向けの掛け声で終わらせていない。
8. ファンや評論家の反応
リリース当時、『Push the Button』は「Galvanize」の強さもあって商業的に好調なスタートを切り、UKでは改めて“ケミカルはまだ一番上にいる”という評価を引き寄せた。
一方で、一部のオールド・ファンからは「初期ほどのラフさはない」「ゲスト色が強い」という声もあったが、それでも2000年代のダンス・ロック・ブームと並走できた数少ないベテランとして、批評筋からの評価は安定していた。
現在では、“90年代と2000年代を架橋した一枚”として再評価されることが多い。
9. 後続作品とのつながり
このアルバム以降、The Chemical Brothersは『We Are the Night』(2007)や『Further』(2010)でさらに映像的・サイケ的な方向へと進んでいく。
その際の“ポップに開きながらもコアなダンス感は失わない”という態度は、『Push the Button』で確立されたものだと言っていい。
つまり本作は、00年代後半~10年代のケミカルを理解するうえでの分岐点なのである。
10. ビジュアルとアートワーク
アートワークは、タイトルどおり“押す/起動する”というイメージを前面に出し、音楽のエネルギーがワンアクションで立ち上がることを視覚化している。
ケミカルの作品に一貫している“サイケと工業的デザインの混在”がここでも見られ、音楽のごちゃっとした多国籍性とリンクしているのが面白い。



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